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祖父がシベリア抑留にあいました。本人から直接話を聞く事はありませんでしたが、30年ほど前テレビでたまたまシベリアの映像が流れた瞬間祖父がわーっと泣き叫んだのを覚えています。
お父上様お母上様
そういうものだと思います。
トラウマになってるやな
うちの祖父も二年半シベリア強制労働させられたのですが、やはり、子や孫に話さないですね。物凄く怖い目に遇ったとだけ。口に出せないほど酷い目に遇ったのだと思うと何とも言えない気持ちになります。
私の祖父は右手薬指の爪が無く、指や爪自体が変形していたそうです。母親には「名誉の証」「仕事で頑張って出来たもの」と話していたそうです。農作業で出来たものでは無いのは、祖父の娘でもある私の母もすぐに解ったみたいです。「戦争で出来た物」「爪の欠損は凍傷が原因」だと解ったみたいです。そして祖父は「シベリアにいた時は、着替えを盗まれるんだ。だからのんびり着替えも出来ん」と苦笑いして話していたそうです。それ位、祖父も他の日本人も必死だったんだろう。
ほんとに先人達には感謝しかない。平和が当たり前じゃないって改めて感じました。
祖父はだいぶ前に亡くなりましたが、満州からシベリアへと連れて行かれ、2年間抑留されたと話してくれたことを思い出しました。ドイツ兵たちとともに労働し、お互い言葉が通じなくても身振り手振りで分かりあえたと言っていました。祖父が生き延びたので今の私がいます。。。。
ロスケ!ばあちゃんじいちゃんに言われたロスケのズルさは今だに覚えてる。
亡くなった私の父もソ連のチャムスと言う所で抑留され極寒の地で強制労働させられ、昭和24年に舞鶴迄何とか無事に帰れたそうです 余りその頃の話はしなかったなぁと思います もう二度と戦争は起きては駄目です
@@ばんあつこ 映画は、観ていませんが、昨日、原作本を読み終えました。日本に帰還出来て良かったですね。私の父の弟は、満州でソ連の、チタ島に抑留され、21歳の若さで、栄養失調で、病死しました。極寒の地で、満足に食料もなく、多くの日本人が、亡くなりました。父は、陸軍で、帝国丸が、アメリカ軍の襲撃にあい、沈没、父は、船の、木端にしがみつき、「死ぬものか!」と丸1日、翌朝、日本の軍艦に救助され、マニア、フィリピンにて、終戦を迎え、21年の7月に、復員て、母と知りあい婚姻しています。父からは、戦争のはなしは、聴いた事がありませんが、我が戦記のような、手記を残しています。日本が、動き抑留者の事に、動きだしたのは、数年後でした。叔母(妹)がチタに赴き、遺骨の変わりに、現地の石を拾い、それが、お墓におさめられています。父の軍事郵便は、何故か両親の元に届かず、弟のハガキは、仲間に絵の上手な方が漫画的な絵を添えて、日本に届けられたそうです。父も、和歌を読むのが好きで、時々、書いていたようですが、上官から、「和歌なんぞ、詠みやがって、女々しいぞ」と怒られたそうです。山本さんも、句会等を開いたそうですが、彼の最期の遺言は、(文字に残すには、スパイとみなされる)、仲間4人が、文書を記憶し、遺族(奥様、母上、子供達)に託すされたそうです。もう、戦争の事を語る者も、いなくなり、8月15日が、何の日であると言うことも知らない若者もいますが、祖国日本の為、戦い、命を捧げた多くの人がいる事を忘れては、いけません、ウクライナ🇺🇦とロシアも、平和的解決が来ることを望みます。
@@伊藤やよい-l6wm(_ _)m😢
祖父もシベリア帰り…寡黙で、昼からお酒を飲んでいたから話しかけにくかったけど、すごい環境で過ごしてきたんですね。祖父に感謝です。
曽祖父がシベリア抑留兵だったようなのですがこのような辛い目に合っていたと思うと胸が痛くなります...
私はシベリアから父が帰ってきたので生まれることができました。
同じく祖父が抑留されていました四年いたそうです帰ってきたら自分の葬式が済んだあとだったそうです
僕の祖父もシベリアに抑留されてました。あまりその時のことは話してくれなかったのですが一度だけ話してくれた事がありました。食料事情が悪く蛇や鼠を捕まえて食べたそうです。作業ノルマがキツかったそうですが頭が悪いソ連兵がいてノルマを誤魔化してたって言ってました。祖父はもう亡くなったのですがこの事も含めて忘れないでいようと思います。
中国に侵略した報復だ、中国人に投降してないからね。当時の我が国の国民政府に投降した日本侵略者は無事に帰国した。日本兵をシベリア流放、賢明な対応でござる。
@@USA-selection 今は中国が侵略者だけどな。
戦争のことを語ることができる人が減っていくなかで、このような動画で後世に残していくのは本当に大切だと思う。
お決まりのコメントはいらないよ
亡くなったじいちゃんもシベリア抑留兵でした戦友達で作った会誌があり体験を書き残したもが数十冊以上あったのですがじいちゃんが亡くなり部屋を整理して残ったものは数冊、今となっては惜しい事をしたと悔やんでいます
お決まりで良く聞く言葉だけどほんまやなぁ…
お決まりで良く聞く言葉だけど、何も残さないで世を去って行く抑留経験者が多い様だね。
93歳でこれは強すぎる。
精神力凄まじく素晴らしいです。
1:22
チャンネルSP 対して調べもせず抜かしおる
チャンネルSP その石碑鵜呑みにしてる時点でリテラシー無さそう
年齢はその時に付いたもの🎉
話が聞けるって凄い貴重なことよね
普通ではないね。なぜかというと①帰国者は戦争中にしたこと、されたことを話すことで、家族から嫌われたり軽蔑されたりしたくないから(思い出したくないのも大きいだろうが)話さない人がほとんど。②高齢のためほとんどが死に絶えているので、いま話を聞けるのは奇跡に近い。
本当にそう思います。こういう記録は私たちの貴重な財産です。
ラーゲリより愛を込めて初日舞台挨拶観てきました。極寒の地でたくさんの方の犠牲があり現代の日本の繁栄があること。無事日本の地に帰国された方々が心に痛みを抱えながら生き抜かれたであろうこと。色々乗り越えなければならない戦争が世界から消え去りますように。
自分の祖父もシベリア抑留にあいました。抑留中に生死を彷徨う危篤状態にもなったそうですが何とか生きて日本に帰ってきたそうです。祖母と出会う前の事なので、少しでも運命が違っていたら父も自分も産まれてなかった。生きて帰ってきた祖父に感謝しています。
しゅうぺいさんへ私の父も抑留経験者です。イルクーツクでした。
ラーゲリより愛を込めてみて目腫れるくらい泣きました、今の自分がどれだけ幸せなのか身に染みました。
それなです、。目腫れますよね
私の祖父も4年間シベリアに抑留されていました。96歳ですが、認知症もなく、今でもとても元気です。昔、戦争の話をよく聞いていましたが、一番辛かった経験は語ることはありません。とにかく「戦争(争い、傷つけあうこと)だけはいけない」それだけは一貫しています。
私はロシア人で、あなたの祖父を差し押さえて、私はとても申し訳ありません
今でもお元気なんですねホント逞しいおじいちゃんですね😁🐾どうぞ体に気をつけて長生きしてください。
@@国後島島主 私の祖父はソ連兵を564ました。逆にソ連兵に563れかけました。しかし祖父を救った人もまた、ソ連の人でした。
戦争だけはいけないってさ、よく聞く言葉だけど、戦争に賛成して熱狂してスポーツ感覚で侵略して殺戮しまくったのは、年寄りの世代の殆どのやつ加担者だからね。町内会と隣組作って、人と違う意見持ったら非国民とか村八分とか憲兵に密告とかして殺したり、未だに村八分や嫌がらせを、手段とした同調圧力による搾取や強要のための組織の町内会残ってるし。話しが合うわけない。そんなやつ等。戦争起こさないために、もう少し具体的に何かいえよって感じ。戦争はよくないとか、自分はやりたい放題やったけど、悪いのは戦争って事でよろしくって責任逃れに聞こえる。
私の父はロシアの最前線、シベリアの戦場に行かされ、人間性が180度変わって帰国しましたが、酒で、戦時中の酷い事を忘れ様としたが、身体を悪くして、少し良く成り、又酒を飲み、繰り変えしで、52才でこの世を去りました。誰にも戦時中の事は一言も喋らず、可哀想な父でした。母、兄妹4人共人に言え無い苦労をしました。戦争前はとても優しい思いやりの有るお父さんでした。
ロシアで苦しんだ帝国軍人も靖国に祀ってほしいです。ロシアで苦しんだ父も若くして亡くなりましたが、葬式には時の総理大臣から銀杯が贈られ、日本という国の優しさをかんじさせたれました。
あなた方家族は、物凄く頑張ったんでしょうね。
私の父は、シベリア抑留から帰国後、郷里では、戦死者になっており、挙げ句のはてに、「赤」と村八分にされた。マイナス40度の酷寒のシベリア兵のほうが、よほど温かだった。戦後の日本人は、冷たく自分のことしか考えてないようだったと回顧していたが。父が、不憫に思えた。地獄から生還しても、世の中は冷たい...
同じシベリアに抑留された。名将三原と並び称される。巨人の水原茂監督は、後楽園球場で大喝采を受けたのに酷い話だ
GHQの洗脳のせいですね。悲しくなります。日本の為に戦ってやっと日本に帰れたのに。
辛い経験でしたね
同じく。シンパとみなされ村八分。
とんだ田舎に帰ってしまいましたね。余程閉鎖された農村地帯でしょうか。それでも私は祖父に戻ってほしかったと思いますが。
おじいちゃん、世界ではまだ、争いが止むことはありません。どんな思いで、私達を見ていますか。。大人になって、世界を知って、可愛がってくれたおじいちゃんの気持ちが深く沁み入ります。生きて帰って来てくれてありがとう。
ラーゲリより愛を込めては、本当に泣いたな。こういう映画を学校で観せる事の方が、どんな教育よりよいと思うんだけど。高校の時に、授業中に、名作ばかり映画を見せてくれる先生がいたけど、ろくに授業を聞かないで寝ている生徒ばかりなら、それもありだなと思った。
戦争経験者が終戦後子供や孫に語ることなく墓場まで持っていくケース多いらしいけど、すごい精神力だと思う
聞いても祖母も祖父も語りませんでしたねただ祖父はおもちゃの銃を人に向けたりすると人が変わったように怒ってました子供の頃はなんで玉も出ないものなのにと思ったけど、大人になってから分かりましたこれが日本人の基質、それ故に外国の作り話の証言を経験した子供ですら信じてますからね
私の父も祖父の抑留の時の話は聞いたことなかったそうです。
このチャンネルspのページ行ってみたら、在日朝鮮の気質がわかる気がしたわ…。育ち悪いって可哀想ね。
@@kengonish6104 自分たちはするから、したから他人もするだろうという感じですね一緒にするなと思います
@@SP-nt2od 捏造しないでください。石碑は反日のカンフル剤に使ってるだけだろ。それより、ライダイハンへの養育費や賠償しろ
3年前に99才で亡くなった祖父も抑留されてたそうです。あまりその事や戦争について話は出来ませんでしたが、友人が次から次に寒さで死んでいく話をボソッと言ってた記憶があります。ホントに過酷な状況で耐えてきた事により今の自分がある事を感謝して生きていかないといけないと改めて思いました。
ラーゲリより愛をこめてを見に行ってきました、すごく考えさせるような内容でしたしすごく感動しました😭ニノの演技力が素晴らしすぎた
日本も同じようなことをしていたということも忘れては行けませんね。😢
主人公がロシアに興味があるというのもあり、映画を見終わったあとでもロシアという国になんの嫌な気持ちを持たなかった。あの映画は素晴らしい。
実力派ばかりで良かったですよね!桐谷健太も流石だった
戦争は人間を駄目にしてしまう上に立つ人間違えた日本は戦争に負けたしかし沢山の人を今でも苦しんで生きている人沢山いる人間のあさはかさばかさかげんですね
ラーゲリより愛をこめてを見に行ってきました、すごく考えさせるような内容でした😅凄く感動しました😊ニノの演技力が素晴らしいすぎた😮初めて、私が、うまれていない時、戦争が、あったんですね。知りませんでした😂
私の祖父もシベリア抑留経験者でした。著者の中で当時の事を残していますが、書いていない話を色々と子供の私に教えてくれました。こんな環境を耐え、帰国してもスパイの疑義をかけられ中々家に帰れなかったとか、ホント、泣けて来ますね。
さすがに死ぬような思いしてまで帰ってきたのにスパイと言われるのはきつすぎる……
俺のひいじいちゃんはシベリアに行って戦争の中病気にかかりそのままシベリアの地でなくなってしまいました。この動画を見てひいじいちゃんの気持ちを考えると胸が苦しくなる…。
本当に93歳?ってぐらい生き生きしてるし、生命力に溢れてる
私も100歳まで以上、頑張ります。
生命力の強い人が生き残ったんだろうな
曽祖父がシベリア抑留にあいました。幸運なことに曽祖父はロシア語が話せたので、ロシア兵に話をつけて早めに日本に帰ってこれたそうです。曽祖父は私が生まれた年に亡くなったので、なにか感慨深いものがあります。一度でもいいから会って、無事に帰って来てくれてありがとうと伝えたかったな。
朝日新聞
当時でロシア語を喋れるとは優秀な曽祖父だったのですね。
戦争をやめさせるのはやはり人と人との繋がりかと。
さてはロシア人、つまり、そういつことか。
私の父方の祖父もロシア語が話せました、何故か中国語と英語も少し話せたので、ロシア軍に通訳として使われたそうです。
ラーゲリを観てきて、昔のことをもっと知りたいって思ってこの動画に辿り着きました。 上手く言えないんですけど、何十年何百年経っても、過去にあった出来ごとを忘れずに 子供たちに語り継がれていってほしいです…(語彙力…💦)
死ぬ覚悟より生きる覚悟の方が難しい中生きてくれた先祖に感謝です
祖父がシベリアに連れていかれたと聞いていました日本に帰るまでは死ねない。その気持ちだけで生き抜けたと言っていたそうですやっと日本に帰って故郷の駅に着いた途端、ぶっ倒れたそうですガリガリに痩せていてもう死ぬところだったと聞きました祖父は子供や孫には戦争のことは話しませんでした『寒いのは大嫌い』とだけよく言っていました生きて帰ってきてくれてありがとう優しくしてくれて欲しいもの躊躇せず買ってくれてありがとう戦争は悲惨だってしっかりわかっているからね
@@UKHARDCOREPUNK え、何言ってんの?
祖父の愛情が戦争のことを封じ込んで新しい人生を送ろうと思われたと思います。頭が下がります。
抑留って特殊な言い方してるけど奴隷として拉致されて強制労働させられてるんだよね国が負けたらこんなことされるって本当におぞましい
戦後の出来事で国際法に違反しています
これが(大)日本国政府の意向でもあったことが何とも嘆かわしい。逆に日本の状況がとても苦しいものだったことも暗示している。近衛文麿が中心になって考えた講和案や関東軍方面停戦状況に関する実視報告といった文書からも見て取れるが、当時の日本国には国民を養う力が無かったのだろう。
私の父はロシアに拿捕され捕虜になった、強制収容所に入れられた、戦後5年間も拉致されたというふうには表現していました。シベリア抑留という言葉は、比較的最近聞いた言葉で、違和感を感じます。シベリアという地域が何をしたわけでもないし、抑留とは、短期間あるところにさしおかれることで、言葉遣いに誤りがあります。ロシアによる日本人拉致不法監禁強制労働拷問並びに殺人事件です。おめおめと、国連による国際人権宣言(昭和23年12月10日)の後も日本人の人権を踏み躙ったのです。これが国際連合の正体です。
これから、強制拉致奴隷拷問殺人と言おう!
拉致されて強制労働は、現在、中国でもウィグル人にやってる。
シベリア抑留を経験した人は生命力が違う気がする。90代とは思えないシャキシャキ感。
敬礼合掌しか言えない敬礼合掌
@@UKHARDCOREPUNK ヘタレが横から口突っ込むな
@@UKHARDCOREPUNK やめーや笑
@@tiger3434 五月蝿いよガキ
こんな90代は見た事ないやはり生きてきた経験や軌跡、それ等全てが今の姿に現れてる 。
祖父がシベリアに行っていました。朝起きたら隣の人が死んでいたことがある。その話だけ聞いた事があります。祖父はシベリアのことについて多くは語りませんでした。本当に苦しいことは語ることができないのだと思いました。このように当時のことを語ってくださる方がいることは、残された私たちにとってとても貴重であり、有難いことだと思います。
たまたま今日このドキュメンタリーを見て亡くなった父を思い出しました。父はよくシベリア捕虜の辛かった事等をよく話してくれていましたが何人も毎日亡くなる戦友を見てきた父でしたから最後に帰って来た父で舞鶴にシベリアの帽子を被り帰還した話を聞きました。大変なめにあいつつも決して負けなかった父仲間、帰って来てから2年に一度皆であって再会をしていました。健康の有り難さを身に染みていた父は食生活をしとかりと摂る大切さをしてくれて元気な身体は本当に有難い限りです。父の大変な過酷な姿を見て改めて戦争を二度としない気持ちを強く持つ私がいます。貴重な話をありがとうございました。
私の祖父もシベリア抑留の経験がありました。祖父はすでに10年くらい前に他界していて、祖父がシベリア抑留に遭っていたことは最近母親からいろいろ教えてもらいました。生きて帰ってきて、その後母親とずっと暮らしていたみたいです。体はよく掻きむしっていたみたいで、家で夜うなされてることは何年経っても何度もあったみたいです。話を聞いて一番印象に残ったのが、祖父は死ぬ前病院のベットで暴れちゃってたらしく、手足をベットに結びつけられてたのですが、ある日母に病院から電話が来て、祖父がどうしてもこの紐を外せ外せと暴れてしょうがない、娘さんと話したいと言っていると言われ、母親は急いで病院に向かったら、もう体も痩せ細って何を喋っているかもわからないかったけど、自分が手足を縛られているとシベリア抑留の時を思い出してしまって苦しいと必死に訴えていたみたいです。体が弱って、もうすぐ死んでしまうという時でも、自分の苦しかった経験を思い出して必死に暴れてもがいていた祖父を想像すると、胸が痛くなりました。何十年も経って、死ぬ間際までシベリア抑留は頭から決して消えない事だったんだと思いました。
父方の祖父の兄が満州に行ってシベリア抑留にあいそのままシベリアで亡くなったというのを祖父から少しだけ聞いたことがあります。こうして生き残った人の話を聞くだけでも地獄のようなシベリアの辛さがよく分かるので、祖父の兄を思うといたたまれない気持ちになります。
辛い、羽目は、相当かと、仲間意識が、命を、守り続けました🌺☀
不毛地帯を、だいぶ前に読みました。涙だが留まりません。寒さと、飢え、黒パンと、腐たハクサイの、塩じる肉なんてほんの少し。共産党がその時から大嫌い😡⚡なりました。言論の自由で、好き勝手な事言って、皆なで、共産党排除しょう。
曾祖父がシベリア抑留で亡くなりました。せめて遺骨が戻ってくるようになってほしいです。
この人たちの言葉を今聞くべきだと思うんだけど
私の曾祖父はシベリア抑留されてやっとの思いで帰ってきたのに落盤事後で死んでしまった。娘(私の祖母)も生まれたばかりだったのにさぞ無念だった思うどれだけ辛かったか 私達がこれから出来る事はこの事を学び未来に生かすことだと思っている
こういう動画を見ると、若者の自死が疑問になります。
@@村岡-l9z未来に希望がないと生きる気力無くすからね今の日本は今の中年〜年寄り世代が築いた日本ですよ
毎日、日は昇り、日は沈み 何気ない一日。 この映像を見ますと、自分の毎日が贅沢に感じます。一杯の水が素晴らしいと感じます。まさに今の時代、恍惚と不安と二つ我にあり。
ラーゲリより愛を込めてをみて改めて戦争は人々をこんなに苦しい。辛い日々をさせたのだと思いました。
ラーゲリを見てシベリア抑留についてもっと学びたくなって、この動画にたどり着きました。こうやって学びたいと思って調べたら動画や画像、音声があって思い出す事も辛いであろう記憶を語り残して下さる方々に感謝しかないです。
ラーゲリより愛を込めてって映画が公開されて、感動だなとかミセスの歌最高!とかで終わると思うけど、こういう現実を知ってるとまた見方が変わるんだろうな
申し訳ないけどあの映画を見てミセスの歌最高!で終わる人はいないと思う
今回舞鶴で朗読劇を拝見したばかりで見るこの番組。胸が締め付けられます。戦争が終わってからも戦い続けた人達がいたこと初めて知りました。知ろうと思わなければ知ること無く無知のままでした。後世に伝えて行くべきお話だと思います!!
私が担当している利用者様もシベリア抑留経験者です。入浴介助をしていると、いつもシベリア抑留中に入ったドラム缶風呂に入れる時、それだけが本当に生きてるのを感じられた時だったって毎度のように教えて下さいます。ロシアの言葉も覚えたよと聞かせて下さいます。このふたつの話は笑顔で穏やかに教えて下さいますが、時々険しく、悲しい顔で、時には涙を流しながら、本当に寒くてお腹もいつも空いていて、朝になると隣の人が死んでる事もよくあったんだよ、生きて帰れるとは思ってなかった、悲しい事、酷いことが沢山あったと話してくれる時があります。そういう時は傾聴する事しか出来なくて...詳しい事は聞く事が出来ないでいます。
祖父はシベリア抑留を経験してます。祖父がシベリアにいた事は知ってましたが、中々その話を聞くことが出来ませんでした。最近になって語り部として、経験した話を伝えてくれてます。祖父は、日本に帰ってきても夜な夜なシベリアでの悪夢をみていたこと、戦時中目の前で友人が亡くなった話をしてくれました。戦争が終わっても、祖父の戦争が今も終わっていなかったことを理解しました。おじいちゃん生き残って帰ってきてくれてありがとう。そのお陰で私は生きています。
小学生時代地元のシベリア抑留兵のお爺さんの体験談聞いたけど壮絶だった。
私の祖父もシベリア抑留者でした。生前よく話してくれました。隣で寝ていた戦友が翌朝飢えや寒さで亡くなっていたと。戦友との手紙には「シベリア抑留時は地獄の様な日々だった」と記してありました。
ジャリタレ芸人のくだらない番組を垂れ流すより、たと30分でもいい、ゴールデンタイムでこのようなドキュメンタリーを流すべき。日本が、ソ連が、アメリカが悪いというのではなく、戦争っていうのは誰の得にもならないってことを今こそ若い世代に伝えるべき。
全く同じです、まじめな話でも、笑かしたら、勝った用な、顔をしている、そしてただ自分らだけで騒いでいるだけでしょう。特に吉本、、、
@@yamaumito笑いも平和を考えることも、どちらも大事やで…
今の時代は、「明日は、めんどくさいな」と思うかもしれないけど、この当時は、1日を生きるのが精一杯なんだぞ。命のありがたさがわかる動画だな
今の時代に生きる人間だが、明日を面倒くさいと思ったことは1度たりとも思ったことが無い。そんなことを思いながら生きている人がいることに驚いた
私も、めんどくさいことして生きてる人がいることにビックリだぜ!
当時は当時、今は今だしな
何度かシベリア抑留の写真や本などを読みましたが、生命の限界を超えるものですね。つらい時はこれを思い出し、戦争に行った人を思えば、これくらい耐えなければと自身に言い聞かせています!
辛い状況に耐えねばならない人も居たでしょうが、あなたも無理に耐える必要はないのですよ
@@翼堤 私に向けての言葉ではないけど涙が出てきました。
幸せになって良いんだよ
何年も前に亡くなった私の祖父は 満州連れていかれ捕虜になった話を時々 思い出したように話し、聞かせてくれました。ある日、氷がはった池が割れ溺れていた子供を助け その家の人に時々パンなどをいただいて助かったような事を話していました。寒さや飢え、病気で亡くなった仲間を寒い部屋に置くと あっという間に凍り ソリに乗せるとズルズルと滑り落ちそうになるから手で押さえながら 運び ある場所で焼くそうなのですが 焼き終わるまで寒くてその場から動けず 火の中で 生きてるように動き出す仲間の姿をじっと見ていたらしいです。怒った顔を見たことがないくらい とてもとても優しい祖父でした。戦争はダメです。周りに感謝して生きていきたいです。
こう言う方々のお陰で今 我々は平和なんだと思うと 感謝の気持ちを忘れたらいけないですね!
貴重なお話ありがとうございました!話聞いていて涙でしかありません。
自分は今高校で歴史を学んだりしています。小さい時、戦争は遠い昔の出来事だと思っていましたが戦争について学んでいくうちにまだ生きている人がいるなどを知り親近感が湧いてきました。今の日本は確かに裕福だと思いますが、国民の精神的には何か足りないようなものがあると僕は思います。僕自信まだ未熟なのですがこの先の日本を担う一人として、しっかりと生きて良い日本づくりをしたいです。戦争時に日本を命懸けで守ろうとしてくれた方々がいたことにしっかりと感謝して生きたいです。生きたくても生きられないということは今ではないと思うので、何か辛いことがあってもそれを乗り越えられるような人間になっていきたいです。
戦争の悲惨さは、私も父から幾度となく聞かされました。父は、年齢で戦地こそ行きませんでしたが、父の親は、日立航空で働いていました。そこへ、父が御弁当を届にいく途中空襲にあい、日立が空爆にあいました。父が行ったさいは、もう、親は亡くなり横たわっていたそうです。それからというもの、長男だった父は、4人の弟妹と共に東京から長野に疎開しました。一番下の妹はまだ2歳だったそうです。苦労苦労の日々が続いたようです。シベリアに行かれた方達は、想像を絶するような辛い思いをしたはずです。戦争は、なぜ繰り返されてしまうのか。戦争は、なんの意味もなく、悲しみしか残さない。絶対にしてはいけないのです。国のトップである人は、国民の平和、幸せを守っていくべきです。それは、世界の平和に繋がります。
@@Himawari672 そうなんですね。。読んでいて涙ぐみました。今のロシアウクライナ情勢を見て胸が痛みます。戦場に出られてる方は上からの命令なのでとても可哀想だと思います。。過去を学び世界単位で平和活動することが大切ですね。
@@Wolf-dw9qm 過去を学ぶことにより、今の自分が生きようと積極的になると思います。靖国の遊就館に時々行きます。
まだ生きてる人がいるなど知り親近感…か。もう知る人がいなくなる時代に差し掛かるわけだけど、どうすればいいかね。。。
@@top326pond 僕の場合はそうでしたが他にも手段はあると思います!最初のコメントをした時は高校生でしたがあれから大学受験をして今は都内の大学生です。アルバイトで塾講師をしており子供と接する機会が他の人たちよりも多くあります。社会科を学ぶ中学生や、日本史受験でしたので日本史を学ぶ高校生達と共に空いている時間に戦争や平和について話したりしてます!
戦争とは残酷で悲惨なものです。とても一言では語り尽くせません。祖父母達の悲しい歴史は消えることはなく、亡くなるまで戦争の話をしていました。戦死した二人の息子の話は尽きる事なく、心に刻まれたまま物悲しい最後の人生でした。亡くなるまえ仏壇に手を合わせている祖父がやっと「息子の所へ行って顔が見れるんだよなぁ」と呟き、その後、「息子達は85歳の父親の顔がわかるかなぁ。」と言った言葉が今でも忘れられません。今度生まれてくる時は、平和でありますように!
元村長の言葉で『平和の中に生きてください。この世界を大切にしてください。』とても難しくて温かい言葉だと思いました。戦争を体験してない我々は平和ボケしてると言われますが、それで良いのかも。平和でいる事を感謝して、人を愛する。日本もロシアも戦争に行った人達が犯した事は凶悪かもしれない。でもその人を憎むのではなく、戦争を憎み、平和でいる事で戦争に勝つと。
同意です😢
シベリア抑留者の集合写真が映し出されると若き父の姿を探してしまいます。結婚が遅かった為に何かを語ろうにも私が幼すぎたし、娘に辛い記憶は話したくなかったと思いますが、母にも殆ど話すことはなかった様です。ただ最晩年、オペラの舞台を観た時に赤いマントが振られている演出に「ソ連」の旗が振られる様子を思い出して怖がっていました。唯一私に語ったシベリアの思い出は辛さとは離れた精神の美しさ。私が父を今でも尊敬し続けている理由のひとつです。
ていうか60万もの人って物凄いな…
中核都市の人口以上だもんな
17年前、放浪旅で昼寝するつもりで立ち寄った無人駅での待ち時間に、偶然に帰還兵の方が当時の貴重な話をしていただきました。なんか、私の心の甘えを見透かされそうな、そして何故か、凛々しくて、壮絶な地獄を生き延びた男の凄さは年齢を重ねても何か「かっこいい」感じでした。後々「かっこいい」とは何かの価値観が変わり、感謝してます。とにかく、長生きする事、這ってでも生きること、一生懸命は美しく、そして、全てにありがとうと思う謙虚さは、カッコ良いと思いました。
すごい出会いですね...
14:02~横山さんの人間性、本当に素晴らしいとおもいました。最近は戦争について考えてさせられます。ウクライナ侵攻が停止されてることを切に願います。
学校でシベリア抑留について学んだことは一度もありませんでしたが、20年前に亡くなった祖父が当事者でよく話してくれていたので子供の頃から知っていました。今では学校等で学ぶ機会はあるんでしょうか?とにかく食べ物についてうるさかった。少しでも贅沢なことや好き嫌いを言うと「わしがシベリアにいた時は…」と説教が始まる。あまりにも毎日のように言うので、「耳にタコができる!」とほとんど右から左に聞き流していたことを今では後悔しています。この映像では飯ごうでしたが、祖父の所は黒く固いパンだったそうです。それを同じラーゲリに暮らす人数分、寸分の差もなく切り分ける。これが大変だったそうです。少しでも差がつくと大きなパンを取ろうと争いになるからです。ラーゲリはとても寒かったと言っていました。冬は仲間と抱き合うように寝た。それでも朝になるとその仲間が息をしていないこともあった。細かい話は忘れましたが、亡くなった人を山積みにして燃やすことがあり、その様子をラーゲリの窓から眺めながら、「いつか自分もあのように燃やされるんだ、いや、死んでたまるか!」と思っていたとも。自分達を管理していたソ連兵はとても偉そうで腹立たしいことばかりだったようです。でも、そのソ連兵が使っている乗り物だか、自分達が使用する作業機械だかには「Made in Japan」と書かれていて、「偉そうに言っているくせに、使っているものは日本製なんだな!」と嘲笑していたらしいです。しかし、近所には優しいロシア住民もいて、食べ物や飲み物、着る物を恵んでくれる人達もいたそうです。でも仲良くすると彼らが罰せられるのか、あくまでもこっそり。いつも世話してくれる母娘がいたようです。いつか飲ませてくれた温かいワインが忘れられないと言っていました。祖父は木々の伐採作業をしていたそうです。毎日ノルマがあって、それをこなさないと終わらない。チームのノルマだから体調が悪い人がいるとそれだけ作業が遅れて困ったそうです。お腹も空いて力が出ず、弱音を吐く人を奮起させながら頑張ったそうですが、話を聞いているとどうやら祖父は弱音より、ソ連に対する文句を言って力にするタイプの作業員だったのでしょう。とにかくよく怒ってました(笑)。騙されてシベリアに連行されたことは祖父も言っていましたが、日本が戦争に負けたことを知ったのは日本に帰る直前(終戦2年後)だったそうです。突然帰れるとなってまずは身体検査を受けることになったのですが、せっかくソ連にいたのだからここでの体験を家族に話そうと、お土産として自分で縫った服や作ったスプーンなどを持ち出し検査場に行ったそうです。そして荷物を置き服を脱いで検査を受けたら、違う部屋に案内されてそこにあった新しい服に着替えさせられたそうです。「帰る時まで騙された」とお土産を持ち帰れなかったことを口惜しそうに話していました。全て子供の頃に聞いた話で思い出しながら書きましたが、きっと子供心に面白いと感じ、頭の中で映像化されていた記憶だけです。きっともっともっと話してくれていたはずですが、なにせ当時はこの話の貴重性が分かっていなかったし、ほんと毎晩同じ話なので(夕食時)ウンザリが勝ってろくに聞いてませんでした。どこの収容所だったとか、仲が良かった戦友のお名前とか、固有名詞を覚えておきたかった。大人になった今なら、そしてネットが発達した現代なら、祖父の体験を様々な形で追体験できたでしょうに。愚痴っぽい祖父でしたが、亡くなるまでずっと使っていたロシア語は「スパシーバ(ありがとう)」と「ハラショー(素晴らしいという意味ですが祖父は「美味しかった・ごちそうさま」という意味で使っていました)」でした。きっと日常的によく使っていた言葉だったんだろうと思っています。長文失礼しました。
専門家がずっと喋ってるなって思いながら見てたら張本人だと知って驚いた。93歳でこれはヤバい元気過ぎ笑もう20年生きれるぐらいじゃん笑
お国の為に戦った勇者。まだ若かった……厳しい中、耐えながら生きる為に戦った。尊敬します。日本人としてありがとうの気持ちを忘れないようにしたいです。今の90代ですね…✨✨
私の祖父は十代前半でした。シベリア抑留のために汽車に乗せられたそうです。ですが飛び降りて逃げたそうです。もし、祖父が抑留されていたら…私達は生まれていなかったかもしれない。逃げた先で保護してくれた中国人のご家族には孫の私も本当に感謝しています。戦時中に生きていた人や戦った人同士が憎み合うのは仕方がないですが、孫や曾孫が当時の事で憎み合うのは違います。現在の日中関係は良くないけれど、そのご家族の孫や曾孫さん達が元気でおられることを願っています。
逃げたやつの話とかどうでもいいわ この動画はシベリアで地獄のような思いをした生き残りの方の体験談だったり亡くなられた方の話だから
@@11人ニキ-y1g そんな事ねーだろ、じゃあお前は10代前半で戦争に行く勇気あったのかよ、優劣とか決めつけんな気持ち悪い、日本の昔のご先祖様はみんな立派でいいだろ
@@11人ニキ-y1gお前はどうしようもない人間だな
中国人て優しい人はとことん優しいよな
僕の祖父もシベリア抑留者でした。どれだけ悲惨な事をソ連がしたのか、日本は忘れてはなりません。
あなたは日本がどれだけ残酷なことを他国にしたのかも知るべきでしょうね自分だけが自国だけが被害者だと思わないことだ
@@噛ませ犬-z7c 事実と因果を知らぬ愚か者は消えろ!
@@噛ませ犬-z7c それほど他国のイデオロギーに見せられているなら、無理をする事はない。日本から出て行け!日本のあらゆる場面で責任ある行動をして来たのは保守層だ。それを馬鹿にする気ならば日本人であっても、所詮はゴミや散りカスと同じだ。立場も弁えずお礼一つも言えないような若者や馬鹿者は日本社会で淘汰されて当然だ。はっきり言おう、お前は生きる資格がない。
@@噛ませ犬-z7c 横から失礼いくら日本が他国に酷いことをしていたとしても、日本兵が酷い目に遭ったという事実は消えないんですよ。「日本人は酷い目に遭ったけど、日本も同じように他国に酷いことをしていたからこの件は無かったことにしよう」なんて理屈は通りません。何よりも、そうやってそもそも『無かったこと』にしてしまうのは実際に被害を受けた当事者たちに対する失礼に当たると考えます。彼らが酷い目に遭ったという事実は確かに存在するのですから。一番理想的な形は各国が各々の罪をしっかりと認め、それに対する誠意を見せることだと思います。誠意の見せ方は金銭でも、それを文章として後世に残すことでも、単に謝罪するだけでも何でもいい。とにかく歴史を風化させず、彼らの犠牲を無駄にしないことこそが大事なんだと思いますね。
@高橋ガラス いえいえ。 自分の書き方がパッと見どっち側か分かりにくいのも事実ですし……。拙い文章で申し訳ありません。
予備役だった大叔父は最後の船で帰ってきた。何が辛かったって帰ったら妻が死んでた、と言うのが1番辛かったそう。
日本の兵隊さんたちは凄かったです。皆さんのおかげで今の日本人は幸せに暮らせています。
戦争の祈念館でのアルバイトで、初めてシベリア抑留を知り、そこで資料やビデオを見ました抑留経験をされた方からもお話を聞かせていただきましたきっかけがあれば、若い人達に話して聞かせるように努めています
このような地獄のような抑留生活を耐えてくれた方たちのおかげで私たちがいます。本当にありがとうございます。
私の祖父はシベリア抑留を経験し、無事日本に生還した一人です。孫の私が産まれたのは祖父が78歳の時。私が物心つく前に祖父は脳梗塞になり、後遺症で満足に話ができたことはありませんでしたが、優しい人で91歳まで生きました。もっと色んな話を聞きたかったし、この映像を見ると、こんな過酷な状況を一生懸命生きながらえ、私にまで子孫を残してくれたことにただただ感謝しかありません。
「近頃、人間が酷く機械的になってきている」政経の先生の親戚の方が書き残した言葉。これを授業の時に聞いた時、背筋が凍る感覚がしました。
当時のシベリアで抑留されていた日本兵が寒さの中でよく頑張って3年間働いてこれたなと思いました。
父方の祖父がソ連で10年間捕虜にあったと父に聞かされ衝撃を受けました。今、僕達が平穏に生きていることも祖父無しでは絶対に無かったこと。恥ずかしい話、今までなんとなく仏壇や納骨堂に手を合わせてたけど、今回のお盆で想いが変わりました。こうしてお盆に祖父の子供、孫、ひ孫が集まれているのも祖父のおかげです。ありがとうございます。
私の恩師の先生もシベリア抑留経験者で日本史の授業でよく話してくれました。まるで奴隷のような扱いだったっと話してくれてずっと泣いてたら泣き虫だなぁって笑って頭をガシガシ揺すってくれました(笑)ありがとう先生、そしてお疲れ様。
優しい先生ですね😣✨
ソ連なんて戦ったかというくらい後になってやってきてみんなさらって行きやがった日本が今まで戦った相手で最も見憎い敵だと思う
露助は不倶戴天の敵よ、アメリカより憎い
ロシアは 日本本土の半分をとるつもりであったが アメリカが阻止した。北方領土 返せ❕
アジア人への差別意識も相まって日露戦争でやり込まれたのが相当憎かったんだろうな
Shin S なんか悲しい。この動画では日本とロシアの平和を願っているのにどうしてこうやって日本とロシアの関係を壊そうとするのかね。
いやソ連からしたら、ナチスがソ連で不可侵条約結んでたのに侵攻してきたから、ドイツの同盟国だった日本を侵略して何が悪いってことなんだろうねナチスなんかと手をつないだ日本がバカだったんだよね
この話は絶対に忘れてはいけない!
高齢なのにボケてもいなく元気で凄いな。
集合写真に祖父に似ている?本人?を見付けました。祖父からは、シベリアの厳しい自然、朝起きたら同胞が凍死していたetcたくさん聞いた事を思い出しました。
ラーゲリより愛を込めて見て、けんめいに生きようとした人たちのことを知りました。私の親戚もシベリア抑留を体験し、なるべく多くの亡くなった人たちの名前を覚えて日本に帰ったそうです。もっといろんな人たちの話を聞いてみたいと思い沢山調べています。辛い経験も後世に伝えるために話してくれた人たちの想いをくみ、絶対に忘れずに伝えていこうと思います。
うちの爺ちゃんもシベリアに抑留されていました。仲間が死んでいくのも何回も見たそうです。当時赤痢も流行して、さらに仲間が死んでうちの爺ちゃんも赤痢にかかったみたいで、赤痢にかかった人はウメルと言う場所で隔離されたみたいです。でもその中でも生きて帰る希望を捨てなかったみたいです。出される食事はグリーンピースばかりだったと言ってました。死んだ仲間は食欲がなくなり、そのグリーンピースを食べてくれと言われてそれをもらって食べたらしいです。次の朝に彼は亡くなったと言ってました。便所掃除はハンマーを持って行ったらしいです。寒いから全て固まってるからハンマーでたたき壊すみたいでした。とにかく抑留は悲惨なものだったらしいです。今のロシア🇷🇺も体質的に変わらないんだなと今回の侵略行為をみて思いました。
ロシアには今後地獄が訪れるので我々は楽しんで鑑賞しましょう。
🇺🇸今のアメリカも体質的に変わってないよ
@@関係何お前みたいな人の不幸を願うような人がいる限り、この世の地獄はなくならないだろうな
一番最初に写っていた写真の中に、もしかしたら祖父がいるかもしれない、と思いながら見ていました。幸いか、日本に帰還し喜寿まで生きた祖父は決してシベリアでの事は話そうとしませんでしから、こうした番組で知ることができるのは非常に貴重だと思います。
コメント失礼ながら、、全く同じ思いでこの動画を見ました。私の祖父は93歳と長生きしてくれましたが、同じくシベリアの話は一切口に出さなかったので、こちらの動画やコメント欄で皆さんのお話を聞けて、とても貴重だと思いました。想像を超える辛い経験があっても、強くて優しかった祖父の事を思い出しては涙が溢れてしまいます。
記憶を鮮明に覚えていて質問にも答えられるって凄い事ですね。実家の高齢の母親は今年84ですが足腰が弱く要介護5で、ほぼ寝たきり生活です。九十過ぎてるとは良い意味で驚きです。
この番組のアップから、わずか二年少々でロシアは、プ・・・の元でウクライナに進軍して、住民のみならず、世界を巻き込みながら戦闘に入りました。人は歴史に学ばないのだろうかとつくづく悲しく思う次第です。2022:3:14
うちの父方の曽祖父もシベリア抑留されていたそうです。周りのみんなはもうダメだろうと思っていたらしい。どれだけの絶望の中で生き抜いたんだろうと考えると苦しいです。母の両親は戦争が終わる直前満州から釜山まで電車や徒歩でたどりつき満州で病気で3人の息子、船の中で娘1人亡くしました。母は私が幼い頃から「この時代に生きれて幸せだね」といいます。流れる星は生きているという本があります旦那さんと同じ電車に乗れず子供達と釜山港までたどり着く壮絶な話です。うちの祖父も祖母が一緒に電車に乗ろうといいましたが先にいけと言われましたが、たまたま同じ電車に乗って一緒に帰ってきました。
配信ありがとうございます。私の父親も抑留されてラーゲルで過ごした日々が綴られたノートが先日とある諸事情により見つかり読んでいてむねが詰まる想いでした。帰国出来たのは24年と書かれていました。
ウチの亡くなった爺さんもシベリア抑留に行っていた。自分が小さい頃よく聞かされてたから胸が痛む。
今の生活がどれだけ幸せか分かりました大切に生きます
話もってるから。写真見てみなよ、太ってるから。ストーリーやからこれは、マジにとらえなや
@@太陽元気-z5h 少なくとも俺らは幸せなはずです。マジとかマジじゃないとかそこを指摘しているあなたは感謝できない悲しい人なんだなと思います。
@@太陽元気-z5h ソースは?
@@djgbjvhj4924 ソースはないけど、写真見ればわかるかなと思って。大袈裟に言いたがるから、昔の人は
喧嘩両成敗、お互いの非を認めて謝ろう、というのが日本人の美学。左翼思想の強いメディアは、常にそれを利用し、赤寄りの番組を作る。ましてTBSですよ。生活困窮者をネタに政府批判のオンパレード「報道特集」も同じです。話半分に聞いておかなきゃ、自虐洗脳されるだけです。
私の父もシベリアから帰ってきたと話してました。寡黙に何も語らずいましたが、ロスケ!!とソ連人を呼んでいたのが記憶に残ってます。
涙が出ましたシベリア抑留極限の生活、憎っくきスターリン!平和が一番どの国も皆地球人、地球を大切に仲良く暮らせたら良いのにと祈ります
better hate ur own country, just read about all Japan's war crimes in China and Korea, from all i know ur educational system isn't ment to tell the truth
どうにか出来ないもんかねえ
父からお婆ちゃんのお兄さんがシベリアに行かされて日本に帰ってきた時はガリガリで、帰ってこれましたが精神もズタズタで自殺してしまったとききました。こんなに沢山の人達が辛い思いをしたのは凄く悲しく思います…。今の日本は平和で戦争の事が分からないと言うのが現実ですが、やっぱりちゃんと歴史を勉強して祖先の戦争経験を家族に話して教えないといけないと思いました。
靖国の遊就館の2Fの資料館に時々行きます。
伯父がシベリア抑留の被害に遭った。多分この写真に写ってる。伯父はすごく優しいひとだった。孫よりも幼い私を可愛がってくれた。戦争のことは何も言わず逝ったけれど、こんな辛い目に遭ってたんだ……。
やはり抑留されていた人って多いんだな…コメを見ると実感する。
ほんとそれ思いました
93歳なのにやたら矍鑠としてるな しかも絵がめっちゃ上手い。
まだ、生きてるんかなあ
それだけ自分にあまくないんだろうな。少しでも諦めたらすぐボケてヨボヨボ爺さんになる。
当時、大東亜戦争を体験された方達の言葉はとても貴重だと思います!戦争を知らない世代も見るべき動画だと思いました。今の平和な日本があるのは、当時命懸けで国のために戦ってくれた方達のおかげです…お疲れ様でした。亡くなった方達のご冥福をお祈りします。 熊本/28歳
大東亜戦争は中国を侵略しまして・日本人知らないでしょ.
@@思想自由 可哀想な人だね。歪んだ教育が、そう思わせているんだね。一つだけ。大東亜戦争は世界から植民地支配から、解放する事を目的として、開戦された戦争で、当時は白人至上主義社会国家が当たり前の時代だった。黄色人種含めて、白人以外は、全て人間ではなく、人間の形をした、何かの生物として、当然人権は、存在しなかった。事実、植民地では、寝るところも、食べる物も、与えられず、大量の餓死者が、出た地域もあった。当時、有色人種には、国家樹立すらも、認められず、有色人種は、ひたすら植民地支配を受け入れるしかなかった。だから、日本は、常任理事国時代に、全世界に、植民地支配から、有色人種を解放するよう、必死に訴えた。その結果、日本は、激しい経済制裁の末、苦渋の決断を下した。それが、大東亜戦争だった。それでも、あなたは、日本が悪いと言えますか?
@@思想自由 その中国が今台湾侵攻を企んでいる本当に皮肉な話です
中国って1949年建国だけど?
中島さんは大変な経験をしてきたにもかかわらずご立派で風格があり歩く姿勢なんてとても90過ぎには見えませんね まだまだ長生きしてくださいね
うちの親父もシベリア帰還者です。厳しい父でした。厳格な父でした。こんな状況がシベリアであることをほとんど知らなかった。親父が私にシベリアの話をしても 私は暢気に聞いていた 私が受け取れる力がなかったことが 今分かった。
父は旧制中学5年で特別幹部候補生という事で出征し、満州で終戦のはずがソ連の捕虜となり、シベリア抑留生活、樺太から復員船に乗り日本に帰りました。その様な父も昭和と共にこの世を去りました。貴重なお話を聴けて感謝です。父の略歴です。1943年 昭和18年 12月15日 現役下士官補充及服役臨時特例により、弱冠15歳、 旧制駒込中学5年、陸軍特別幹部候補生に志願。 その年に徴兵。陸軍第五練習飛行隊として満州国へ。1944年 昭和19年 8月 第1練習飛行団 8月28日 満州国派遣の為、仙台出発 9月 6日 鮮満国境安東 通過 9月 8日 錦州省 中着 12月15日 軍令陸甲第152号により 第1練習飛行団を第五練習飛行団と改称 12月30日 第101教育飛行団の指揮下に 第五練習飛行団 満州第16675部隊 千田部隊 東部第102部隊1945年 昭和20年 3月 上等兵に進級 8月 兵長に進級 元第五練習飛行隊 兵長 満州国阜新 18歳 満州国阜新にて第五練習飛行隊に所属し、兵長。 8月 9日 日ソ開戦 突然ソビエトが満州国に攻め入ってる。 8月15日 停戦のはずが、ソ連侵攻が続く 8月20日 本部第1教育隊錦県にて 武装解除 8月29日 大石橋 武装解除 9月19日 橋頭 武装解除 ソ連軍の捕虜となるソビエト捕虜 1年半に渡るロシアのシベリア抑留、1947年 昭和23年 4月12日 捕虜として 外蒙ボルノール収容所に収容される。 森林の伐採、シベリア鉄道の敷設、強制労働の毎日。 捕虜になった兵士は飢えと寒さでドンドン死んでゆく。 強制労働を終えて捕虜生活から解放され念願の日本への帰還。 昭和22年 11月12日 ソビエト連邦ナホトカ港出航 11月15日 函館港 入港 11月19日 上陸許可。ようやく念願の母国日本に復員。 東京市高砂に戻るも、祖父は昭和21年3月5日午前10時55分に 肺炎の為、既に死去。 帰宅した際、母と姉に迎えられ、 南方戦線より戻った兄が辞書を破いて、タバコを巻いていたと言う。
お父様が帰国された頃には自分は乳飲み子でしたが、帰国できたのは良かったですね。とにかく、戦争は殺戮と破壊の他、何物でもありません。勝ったとしても無傷ということは無いはずですのに、愚かなことです。いまだに世界を巻き込みながら、戦闘がづいてます。特に軍が力を持つといけませんね。それぞれの愛国心にごまかされぬように、考えたいものです。有難うございました。合掌2022:3:14
切ない想いを私達は受け継いでいきましよう
日本が好きで、こんなに住み心地が良くて平和で…今自分がこれだけ豊かに暮らせることが、そのすべてが、ただただ尊いことであるのだと痛感します日本が好きです。だからこそとてもつらい。でも目を背けてはならない。日本が好きということばの中には、ちゃんと中身が詰まっているのか?自分の気持ちをたしかめながら今日を生きたいです願わくばもうこのような歴史が、どうか繰り返されることのなきよう
父がシベリア帰りでした。私は孫と間違われるほど年の離れた親子ではあったため私がまだ若い頃に父を亡くしてしまいましたがシベリアの話は時々聞いておりました。見聞していて父の言っていたこととまったく同じことが本当に多々あり・・・絶句してしまい・・・たくさんの方々の写る写真を見ると父の顔がないかと思わず探してしまうほどです・・・舞鶴の記念館は父の遺影と共にいつの日か行きたいと心から思います。
私の父は、ソ連をとても憎んでました。 卑怯な国だと事ある毎に言ってました。 父はシベリア抑留で結核になったそうです。 母は満州から引き揚げてくる時女はみんな坊主になり、夜は外にも出れず、一人の子供が麻疹にかかったら赤ん坊以外全員かかり全員亡くなったそうです。 誰かが泣くと全員が泣き出したと聞きます。 終戦したのに引き上げが酷いものだったそうです。 竹林遥か遠くでも悲惨な引揚者の状態がわかりますね。
日本は東南アジアで何百万人もの人々を殺しました。 スターリンは正義の人です。あなたの日本政府は日本の血なまぐさい歴史を歪めています。
@@oldbagira2192 と、事実の捏造、歪曲がスタンダードな共産圏の国の人間が言っております。
@@oldbagira2192 自国民を何千万も殺してるやつが正義の人は草
祖父がシベリア抑留に行った話を父から聞きました。朝起きた時に昨日まで喋っていた友人が亡くなっていることもよくあったそうです。よく朝日が見れることを感謝しろと言っていたのはこういう背景があったのかと思いました。
最後に出てきた小さい子供の笑顔が印象的。平和で当たり前に子供達が暮らせる未来が続きますように。。。
父もシベリア抑留され無事に帰る事ができ、去年百才で亡くなりました。生前抑留生活を本にして記録を残してくれました。抑留中、過酷な労働と粗末な食べ物を経験した父は、亡くなる1ヶ月前、2週間前、1週間前に体調悪くて食べられないのに、すき焼き弁当をたいらげ、海産物もたらふく食べて〜命を全うし私達に生きる意味を示して逝ったように思います。本当に病院の先生が驚くくらいの〜回復力を見せてくれていたようです〜壮絶な父の最後はまだまだ私達にやれることはやりなさい~と言っているようです。
祖父がシベリア抑留にあいました。
本人から直接話を聞く事はありませんでしたが、30年ほど前テレビでたまたまシベリアの映像が流れた瞬間祖父がわーっと泣き叫んだのを覚えています。
お父上様お母上様
そういうものだと思います。
トラウマになってるやな
うちの祖父も二年半シベリア強制労働させられたのですが、やはり、子や孫に話さないですね。物凄く怖い目に遇ったとだけ。口に出せないほど酷い目に遇ったのだと思うと何とも言えない気持ちになります。
私の祖父は右手薬指の爪が無く、指や爪自体が変形していたそうです。
母親には「名誉の証」「仕事で頑張って出来たもの」と話していたそうです。農作業で出来たものでは無いのは、祖父の娘でもある私の母もすぐに解ったみたいです。「戦争で出来た物」「爪の欠損は凍傷が原因」だと解ったみたいです。
そして祖父は「シベリアにいた時は、着替えを盗まれるんだ。だからのんびり着替えも出来ん」と苦笑いして話していたそうです。それ位、祖父も他の日本人も必死だったんだろう。
ほんとに先人達には感謝しかない。
平和が当たり前じゃないって改めて感じました。
祖父はだいぶ前に亡くなりましたが、満州からシベリアへと連れて行かれ、2年間抑留されたと話してくれたことを思い出しました。ドイツ兵たちとともに労働し、お互い言葉が通じなくても身振り手振りで分かりあえたと言っていました。祖父が生き延びたので今の私がいます。。。。
ロスケ!
ばあちゃんじいちゃんに言われたロスケのズルさは今だに覚えてる。
亡くなった私の父もソ連のチャムスと言う所で抑留され極寒の地で強制労働させられ、昭和24年に舞鶴迄何とか無事に帰れたそうです 余りその頃の話はしなかったなぁと思います もう二度と戦争は起きては駄目です
@@ばんあつこ 映画は、観ていませんが、昨日、原作本を読み終えました。日本に帰還出来て良かったですね。私の父の弟は、満州でソ連の、チタ島に抑留され、21歳の若さで、栄養失調で、病死しました。極寒の地で、満足に食料もなく、多くの日本人が、亡くなりました。
父は、陸軍で、帝国丸が、アメリカ軍の襲撃にあい、沈没、父は、船の、木端にしがみつき、「死ぬものか!」と丸1日、翌朝、日本の軍艦に救助され、マニア、フィリピンにて、終戦を迎え、21年の7月に、復員て、母と知りあい婚姻しています。
父からは、戦争のはなしは、聴いた事がありませんが、我が戦記のような、手記を残しています。
日本が、動き抑留者の事に、動きだしたのは、数年後でした。
叔母(妹)がチタに赴き、遺骨の変わりに、現地の石を拾い、それが、お墓におさめられています。
父の軍事郵便は、何故か両親の元に届かず、弟のハガキは、仲間に絵の上手な方が漫画的な絵を添えて、日本に届けられたそうです。
父も、和歌を読むのが好きで、時々、書いていたようですが、上官から、「和歌なんぞ、詠みやがって、女々しいぞ」と怒られたそうです。山本さんも、句会等を開いたそうですが、彼の最期の遺言は、(文字に残すには、スパイとみなされる)、仲間4人が、文書を記憶し、遺族(奥様、母上、子供達)に託すされたそうです。
もう、戦争の事を語る者も、いなくなり、8月15日が、何の日であると言うことも知らない若者もいますが、祖国日本の為、戦い、命を捧げた多くの人がいる事を忘れては、いけません、ウクライナ🇺🇦とロシアも、平和的解決が来ることを望みます。
@@伊藤やよい-l6wm(_ _)m😢
祖父もシベリア帰り…
寡黙で、昼からお酒を飲んでいたから話しかけにくかったけど、すごい環境で過ごしてきたんですね。祖父に感謝です。
曽祖父がシベリア抑留兵だったようなのですがこのような辛い目に合っていたと思うと胸が痛くなります...
私はシベリアから父が帰ってきたので生まれることができました。
同じく祖父が抑留されていました
四年いたそうです
帰ってきたら自分の葬式が済んだあとだったそうです
僕の祖父もシベリアに抑留されてました。あまりその時のことは話してくれなかったのですが一度だけ話してくれた事がありました。食料事情が悪く蛇や鼠を捕まえて食べたそうです。作業ノルマがキツかったそうですが頭が悪いソ連兵がいてノルマを誤魔化してたって言ってました。
祖父はもう亡くなったのですがこの事も含めて忘れないでいようと思います。
中国に侵略した報復だ、中国人に投降してないからね。当時の我が国の国民政府に投降した日本侵略者は無事に帰国した。日本兵をシベリア流放、賢明な対応でござる。
@@USA-selection 今は中国が侵略者だけどな。
戦争のことを語ることができる人が減っていくなかで、このような動画で後世に残していくのは本当に大切だと思う。
お決まりのコメントはいらないよ
亡くなったじいちゃんもシベリア抑留兵でした
戦友達で作った会誌があり体験を書き残したもが数十冊以上あったのですがじいちゃんが亡くなり部屋を整理して残ったものは数冊、今となっては惜しい事をしたと悔やんでいます
お決まりで良く聞く言葉だけどほんまやなぁ…
お決まりで良く聞く言葉だけどほんまやなぁ…
お決まりで良く聞く言葉だけど、何も残さないで世を去って行く抑留経験者が多い様だね。
93歳でこれは強すぎる。
精神力凄まじく素晴らしいです。
1:22
チャンネルSP 対して調べもせず抜かしおる
チャンネルSP その石碑鵜呑みにしてる時点でリテラシー無さそう
年齢はその時に付いたもの🎉
話が聞けるって凄い貴重なことよね
普通ではないね。なぜかというと
①帰国者は戦争中にしたこと、されたことを話すことで、家族から嫌われたり軽蔑されたりしたくないから(思い出したくないのも大きいだろうが)話さない人がほとんど。
②高齢のためほとんどが死に絶えているので、いま話を聞けるのは奇跡に近い。
本当にそう思います。こういう記録は私たちの貴重な財産です。
ラーゲリより愛を込めて初日舞台挨拶観てきました。
極寒の地で
たくさんの方の犠牲があり現代の日本の繁栄があること。
無事日本の地に帰国された方々が心に痛みを抱えながら生き抜かれたであろうこと。
色々乗り越えなければならない戦争が世界から消え去りますように。
自分の祖父もシベリア抑留にあいました。
抑留中に生死を彷徨う危篤状態にもなったそうですが何とか生きて日本に帰ってきたそうです。
祖母と出会う前の事なので、少しでも運命が違っていたら父も自分も産まれてなかった。
生きて帰ってきた祖父に感謝しています。
しゅうぺいさんへ
私の父も抑留経験者です。イルクーツクでした。
ラーゲリより愛を込めてみて目腫れるくらい泣きました、今の自分がどれだけ幸せなのか身に染みました。
それなです、。目腫れますよね
私の祖父も4年間シベリアに抑留されていました。
96歳ですが、認知症もなく、今でもとても元気です。
昔、戦争の話をよく聞いていましたが、一番辛かった経験は語ることはありません。
とにかく「戦争(争い、傷つけあうこと)だけはいけない」それだけは一貫しています。
私はロシア人で、あなたの祖父を差し押さえて、私はとても申し訳ありません
今でもお元気なんですね
ホント逞しいおじいちゃんですね😁🐾
どうぞ体に気をつけて長生きしてください。
@@国後島島主
私の祖父はソ連兵を564ました。逆にソ連兵に563れかけました。
しかし祖父を救った人もまた、ソ連の人でした。
戦争だけはいけないってさ、よく聞く言葉だけど、戦争に賛成して熱狂してスポーツ感覚で侵略して殺戮しまくったのは、年寄りの世代の殆どのやつ加担者だからね。
町内会と隣組作って、人と違う意見持ったら非国民とか村八分とか憲兵に密告とかして殺したり、
未だに村八分や嫌がらせを、手段とした同調圧力による搾取や強要のための組織の町内会残ってるし。
話しが合うわけない。そんなやつ等。
戦争起こさないために、もう少し具体的に何かいえよって感じ。
戦争はよくないとか、自分はやりたい放題やったけど、悪いのは戦争って事でよろしくって責任逃れに聞こえる。
私の父はロシアの最前線、シベリアの戦場に行かされ、人間性が180度変わって帰国しましたが、酒で、戦時中の酷い事を忘れ様としたが、身体を悪くして、少し良く成り、又酒を飲み、繰り変えしで、52才でこの世を去りました。誰にも戦時中の事は一言も喋らず、可哀想な父でした。母、兄妹4人共人に言え無い苦労をしました。戦争前はとても優しい思いやりの有るお父さんでした。
ロシアで苦しんだ帝国軍人も靖国に祀ってほしいです。ロシアで苦しんだ父も若くして亡くなりましたが、葬式には時の総理大臣から銀杯が贈られ、日本という国の優しさをかんじさせたれました。
あなた方家族は、物凄く頑張ったんでしょうね。
私の父は、シベリア抑留から帰国後、郷里では、戦死者になっており、挙げ句のはてに、「赤」と村八分にされた。
マイナス40度の酷寒のシベリア兵のほうが、よほど温かだった。戦後の日本人は、冷たく自分のことしか考えてないようだったと回顧していたが。
父が、不憫に思えた。地獄から生還しても、世の中は冷たい...
同じシベリアに抑留された。
名将三原と並び称される。
巨人の水原茂監督は、後楽園球場で大喝采を受けたのに
酷い話だ
GHQの洗脳のせいですね。
悲しくなります。
日本の為に戦ってやっと日本に帰れたのに。
辛い経験でしたね
同じく。
シンパとみなされ村八分。
とんだ田舎に帰ってしまいましたね。余程閉鎖された農村地帯でしょうか。それでも私は祖父に戻ってほしかったと思いますが。
おじいちゃん、世界ではまだ、争いが止むことはありません。どんな思いで、私達を見ていますか。。大人になって、世界を知って、可愛がってくれたおじいちゃんの気持ちが深く沁み入ります。生きて帰って来てくれてありがとう。
ラーゲリより愛を込めては、本当に泣いたな。こういう映画を学校で観せる事の方が、どんな教育よりよいと思うんだけど。高校の時に、授業中に、名作ばかり映画を見せてくれる先生がいたけど、ろくに授業を聞かないで寝ている生徒ばかりなら、それもありだなと思った。
戦争経験者が終戦後子供や孫に語ることなく墓場まで持っていくケース多いらしいけど、すごい精神力だと思う
聞いても祖母も祖父も語りませんでしたね
ただ祖父はおもちゃの銃を人に向けたりすると人が変わったように怒ってました
子供の頃はなんで玉も出ないものなのにと思ったけど、大人になってから分かりました
これが日本人の基質、それ故に外国の作り話の証言を経験した子供ですら信じてますからね
私の父も祖父の抑留の時の話は聞いたことなかったそうです。
このチャンネルspのページ行ってみたら、在日朝鮮の気質がわかる気がしたわ…。
育ち悪いって可哀想ね。
@@kengonish6104 自分たちはするから、したから他人もするだろうという感じですね
一緒にするなと思います
@@SP-nt2od
捏造しないでください。
石碑は反日のカンフル剤に使ってるだけだろ。
それより、ライダイハンへの養育費や賠償しろ
3年前に99才で亡くなった祖父も抑留されてたそうです。
あまりその事や戦争について話は出来ませんでしたが、友人が次から次に寒さで死んでいく話をボソッと言ってた記憶があります。
ホントに過酷な状況で耐えてきた事により今の自分がある事を感謝して生きていかないといけないと改めて思いました。
ラーゲリより愛をこめてを見に行ってきました、
すごく考えさせるような内容でしたしすごく感動しました😭
ニノの演技力が素晴らしすぎた
日本も同じようなことをしていたということも忘れては行けませんね。😢
主人公がロシアに興味があるというのもあり、映画を見終わったあとでもロシアという国になんの嫌な気持ちを持たなかった。あの映画は素晴らしい。
実力派ばかりで良かったですよね!桐谷健太も流石だった
戦争は人間を駄目にしてしまう上に立つ人間違えた日本は戦争に負けたしかし沢山の人を今でも苦しんで生きている人沢山いる人間のあさはかさばかさかげんですね
ラーゲリより愛をこめてを見に行ってきました、すごく考えさせるような内容でした😅
凄く感動しました😊
ニノの演技力が素晴らしいすぎた😮
初めて、私が、うまれていない時、
戦争が、あったんですね。知りませんでした😂
私の祖父もシベリア抑留経験者でした。著者の中で当時の事を残していますが、書いていない話を色々と子供の私に教えてくれました。
こんな環境を耐え、帰国してもスパイの疑義をかけられ中々家に帰れなかったとか、ホント、泣けて来ますね。
さすがに死ぬような思いしてまで帰ってきたのにスパイと言われるのはきつすぎる……
俺のひいじいちゃんはシベリアに行って戦争の中病気にかかりそのままシベリアの地でなくなってしまいました。この動画を見てひいじいちゃんの気持ちを考えると胸が苦しくなる…。
本当に93歳?ってぐらい生き生きしてるし、生命力に溢れてる
私も100歳まで以上、頑張ります。
生命力の強い人が生き残ったんだろうな
曽祖父がシベリア抑留にあいました。幸運なことに曽祖父はロシア語が話せたので、ロシア兵に話をつけて早めに日本に帰ってこれたそうです。曽祖父は私が生まれた年に亡くなったので、なにか感慨深いものがあります。一度でもいいから会って、無事に帰って来てくれてありがとうと伝えたかったな。
朝日新聞
当時でロシア語を喋れるとは優秀な曽祖父だったのですね。
戦争をやめさせるのはやはり人と人との繋がりかと。
さてはロシア人、つまり、そういつことか。
私の父方の祖父もロシア語が話せました、何故か中国語と英語も少し話せたので、ロシア軍に通訳として使われたそうです。
ラーゲリを観てきて、昔のことをもっと知りたいって思ってこの動画に辿り着きました。 上手く言えないんですけど、何十年何百年経っても、過去にあった出来ごとを忘れずに 子供たちに語り継がれていってほしいです…(語彙力…💦)
死ぬ覚悟より生きる覚悟の方が難しい中生きてくれた先祖に感謝です
祖父がシベリアに連れていかれたと聞いていました
日本に帰るまでは死ねない。その気持ちだけで生き抜けた
と言っていたそうです
やっと日本に帰って故郷の駅に着いた途端、ぶっ倒れたそうです
ガリガリに痩せていてもう死ぬところだったと聞きました
祖父は子供や孫には戦争のことは話しませんでした
『寒いのは大嫌い』とだけよく言っていました
生きて帰ってきてくれてありがとう
優しくしてくれて欲しいもの躊躇せず買ってくれてありがとう
戦争は悲惨だってしっかりわかっているからね
@@UKHARDCOREPUNK え、何言ってんの?
祖父の愛情が戦争のことを封じ込んで新しい人生を送ろうと思われたと思います。
頭が下がります。
抑留って特殊な言い方してるけど奴隷として拉致されて強制労働させられてるんだよね
国が負けたらこんなことされるって本当におぞましい
戦後の出来事で
国際法に違反しています
これが(大)日本国政府の意向でもあったことが何とも嘆かわしい。逆に日本の状況がとても苦しいものだったことも暗示している。
近衛文麿が中心になって考えた講和案や関東軍方面停戦状況に関する実視報告といった文書からも見て取れるが、当時の日本国には国民を養う力が無かったのだろう。
私の父はロシアに拿捕され捕虜になった、強制収容所に入れられた、戦後5年間も拉致されたというふうには表現していました。シベリア抑留という言葉は、比較的最近聞いた言葉で、違和感を感じます。シベリアという地域が何をしたわけでもないし、抑留とは、短期間あるところにさしおかれることで、言葉遣いに誤りがあります。ロシアによる日本人拉致不法監禁強制労働拷問並びに殺人事件です。おめおめと、国連による国際人権宣言(昭和23年12月10日)の後も日本人の人権を踏み躙ったのです。これが国際連合の正体です。
これから、強制拉致奴隷拷問殺人と言おう!
拉致されて強制労働は、現在、中国でもウィグル人にやってる。
シベリア抑留を経験した人は生命力が違う気がする。
90代とは思えないシャキシャキ感。
敬礼合掌しか言えない敬礼合掌
@@UKHARDCOREPUNK ヘタレが横から口突っ込むな
@@UKHARDCOREPUNK やめーや笑
@@tiger3434
五月蝿いよガキ
こんな90代は見た事ない
やはり生きてきた経験や軌跡、それ等全てが今の姿に現れてる 。
祖父がシベリアに行っていました。
朝起きたら隣の人が死んでいたことがある。その話だけ聞いた事があります。
祖父はシベリアのことについて多くは語りませんでした。本当に苦しいことは語ることができないのだと思いました。
このように当時のことを語ってくださる方がいることは、残された私たちにとってとても貴重であり、有難いことだと思います。
たまたま今日このドキュメンタリーを見て亡くなった父を思い出しました。父はよくシベリア捕虜の辛かった事等をよく話してくれていましたが何人も毎日亡くなる戦友を見てきた父でしたから最後に帰って来た父で舞鶴にシベリアの帽子を被り帰還した話を聞きました。大変なめにあいつつも決して負けなかった父仲間、帰って来てから2年に一度皆であって再会をしていました。健康の有り難さを身に染みていた父は食生活をしとかりと摂る大切さをしてくれて元気な身体は本当に有難い限りです。父の大変な過酷な姿を見て改めて戦争を二度としない気持ちを強く持つ私がいます。貴重な話をありがとうございました。
私の祖父もシベリア抑留の経験がありました。祖父はすでに10年くらい前に他界していて、祖父がシベリア抑留に遭っていたことは最近母親からいろいろ教えてもらいました。生きて帰ってきて、その後母親とずっと暮らしていたみたいです。体はよく掻きむしっていたみたいで、家で夜うなされてることは何年経っても何度もあったみたいです。話を聞いて一番印象に残ったのが、祖父は死ぬ前病院のベットで暴れちゃってたらしく、手足をベットに結びつけられてたのですが、ある日母に病院から電話が来て、祖父がどうしてもこの紐を外せ外せと暴れてしょうがない、娘さんと話したいと言っていると言われ、母親は急いで病院に向かったら、もう体も痩せ細って何を喋っているかもわからないかったけど、自分が手足を縛られているとシベリア抑留の時を思い出してしまって苦しいと必死に訴えていたみたいです。体が弱って、もうすぐ死んでしまうという時でも、自分の苦しかった経験を思い出して必死に暴れてもがいていた祖父を想像すると、胸が痛くなりました。何十年も経って、死ぬ間際までシベリア抑留は頭から決して消えない事だったんだと思いました。
父方の祖父の兄が満州に行ってシベリア抑留にあいそのままシベリアで亡くなったというのを祖父から少しだけ聞いたことがあります。こうして生き残った人の話を聞くだけでも地獄のようなシベリアの辛さがよく分かるので、祖父の兄を思うといたたまれない気持ちになります。
辛い、羽目は、相当かと、仲間意識が、命を、守り続けました🌺☀
不毛地帯を、だいぶ前に読みました。涙だが留まりません。寒さと、飢え、黒パンと、腐たハクサイの、塩じる肉なんてほんの少し。共産党がその時から大嫌い😡⚡なりました。言論の自由で、好き勝手な事言って、皆なで、共産党排除しょう。
曾祖父がシベリア抑留で亡くなりました。
せめて遺骨が戻ってくるようになってほしいです。
この人たちの言葉を今聞くべきだと思うんだけど
私の曾祖父はシベリア抑留されてやっとの思いで帰ってきたのに落盤事後で死んでしまった。娘(私の祖母)も生まれたばかりだったのにさぞ無念だった思う
どれだけ辛かったか 私達がこれから出来る事はこの事を学び未来に生かすことだと思っている
こういう動画を見ると、若者の自死が疑問になります。
@@村岡-l9z未来に希望がないと生きる気力無くすからね
今の日本は今の中年〜年寄り世代が築いた日本ですよ
毎日、日は昇り、日は沈み 何気ない一日。 この映像を見ますと、自分の毎日が贅沢に感じます。一杯の水が素晴らしいと感じます。まさに今の時代、恍惚と不安と二つ我にあり。
ラーゲリより愛を込めてをみて改めて戦争は人々をこんなに苦しい。辛い日々をさせたのだと思いました。
ラーゲリを見てシベリア抑留についてもっと学びたくなって、この動画にたどり着きました。
こうやって学びたいと思って調べたら動画や画像、音声があって
思い出す事も辛いであろう記憶を語り残して下さる方々に感謝しかないです。
ラーゲリより愛を込めてって映画が公開されて、感動だなとかミセスの歌最高!とかで終わると思うけど、こういう現実を知ってるとまた見方が変わるんだろうな
申し訳ないけどあの映画を見てミセスの歌最高!で終わる人はいないと思う
今回舞鶴で朗読劇を拝見したばかりで見るこの番組。胸が締め付けられます。
戦争が終わってからも戦い続けた人達がいたこと初めて知りました。知ろうと思わなければ知ること無く無知のままでした。
後世に伝えて行くべきお話だと思います!!
私が担当している利用者様もシベリア抑留経験者です。入浴介助をしていると、いつもシベリア抑留中に入ったドラム缶風呂に入れる時、それだけが本当に生きてるのを感じられた時だったって毎度のように教えて下さいます。ロシアの言葉も覚えたよと聞かせて下さいます。このふたつの話は笑顔で穏やかに教えて下さいますが、時々険しく、悲しい顔で、時には涙を流しながら、本当に寒くてお腹もいつも空いていて、朝になると隣の人が死んでる事もよくあったんだよ、生きて帰れるとは思ってなかった、悲しい事、酷いことが沢山あったと話してくれる時があります。そういう時は傾聴する事しか出来なくて...詳しい事は聞く事が出来ないでいます。
祖父はシベリア抑留を経験してます。
祖父がシベリアにいた事は知ってましたが、中々その話を聞くことが出来ませんでした。
最近になって語り部として、経験した話を伝えてくれてます。
祖父は、日本に帰ってきても夜な夜なシベリアでの悪夢をみていたこと、戦時中目の前で友人が亡くなった話をしてくれました。
戦争が終わっても、祖父の戦争が今も終わっていなかったことを理解しました。
おじいちゃん生き残って帰ってきてくれてありがとう。
そのお陰で私は生きています。
小学生時代地元のシベリア抑留兵のお爺さんの体験談聞いたけど壮絶だった。
私の祖父もシベリア抑留者でした。
生前よく話してくれました。隣で寝ていた戦友が翌朝飢えや寒さで亡くなっていたと。
戦友との手紙には「シベリア抑留時は地獄の様な日々だった」と記してありました。
ジャリタレ芸人のくだらない番組を垂れ流すより、たと30分でもいい、ゴールデンタイムでこのようなドキュメンタリーを流すべき。
日本が、ソ連が、アメリカが悪いというのではなく、戦争っていうのは誰の得にもならないってことを今こそ若い世代に伝えるべき。
全く同じです、まじめな話でも、笑かしたら、勝った用な、顔をしている、そしてただ自分らだけで騒いでいるだけでしょう。特に吉本、、、
@@yamaumito
笑いも平和を考えることも、どちらも大事やで…
今の時代は、「明日は、めんどくさいな」と思うかもしれないけど、この当時は、1日を生きるのが精一杯なんだぞ。命のありがたさがわかる動画だな
今の時代に生きる人間だが、明日を面倒くさいと思ったことは1度たりとも思ったことが無い。
そんなことを思いながら生きている人がいることに驚いた
私も、めんどくさいことして生きてる人がいることにビックリだぜ!
当時は当時、今は今だしな
何度かシベリア抑留の写真や本などを読みましたが、生命の限界を超えるものですね。つらい時はこれを思い出し、戦争に行った人を思えば、これくらい耐えなければと自身に言い聞かせています!
辛い状況に耐えねばならない人も居たでしょうが、あなたも無理に耐える必要はないのですよ
@@翼堤 私に向けての言葉ではないけど涙が出てきました。
幸せになって良いんだよ
何年も前に亡くなった私の祖父は 満州連れていかれ捕虜になった話を時々 思い出したように話し、聞かせてくれました。ある日、氷がはった池が割れ溺れていた子供を助け その家の人に時々パンなどをいただいて助かったような事を話していました。寒さや飢え、病気で亡くなった仲間を寒い部屋に置くと あっという間に凍り ソリに乗せるとズルズルと滑り落ちそうになるから手で押さえながら 運び ある場所で焼くそうなのですが 焼き終わるまで寒くてその場から動けず 火の中で 生きてるように動き出す仲間の姿をじっと見ていたらしいです。怒った顔を見たことがないくらい とてもとても優しい祖父でした。戦争はダメです。周りに感謝して生きていきたいです。
こう言う方々のお陰で今 我々は平和なんだと思うと 感謝の気持ちを忘れたらいけないですね!
貴重なお話ありがとうございました!
話聞いていて涙でしかありません。
自分は今高校で歴史を学んだりしています。
小さい時、戦争は遠い昔の出来事だと思っていましたが戦争について学んでいくうちにまだ生きている人がいるなどを知り親近感が湧いてきました。今の日本は確かに裕福だと思いますが、国民の精神的には何か足りないようなものがあると僕は思います。僕自信まだ未熟なのですがこの先の日本を担う一人として、しっかりと生きて良い日本づくりをしたいです。戦争時に日本を命懸けで守ろうとしてくれた方々がいたことにしっかりと感謝して生きたいです。生きたくても生きられないということは今ではないと思うので、何か辛いことがあってもそれを乗り越えられるような人間になっていきたいです。
戦争の悲惨さは、私も父から幾度となく聞かされました。父は、年齢で戦地こそ行きませんでしたが、父の親は、日立航空で働いていました。そこへ、父が御弁当を届にいく途中空襲にあい、日立が空爆にあいました。父が行ったさいは、もう、親は亡くなり横たわっていたそうです。それからというもの、長男だった父は、4人の弟妹と共に東京から長野に疎開しました。一番下の妹はまだ2歳だったそうです。苦労苦労の日々が続いたようです。シベリアに行かれた方達は、想像を絶するような辛い思いをしたはずです。戦争は、なぜ繰り返されてしまうのか。戦争は、なんの意味もなく、悲しみしか残さない。絶対にしてはいけないのです。国のトップである人は、国民の平和、幸せを守っていくべきです。それは、世界の平和に繋がります。
@@Himawari672 そうなんですね。。読んでいて涙ぐみました。
今のロシアウクライナ情勢を見て胸が痛みます。戦場に出られてる方は上からの命令なのでとても可哀想だと思います。。
過去を学び世界単位で平和活動することが大切ですね。
@@Wolf-dw9qm 過去を学ぶことにより、今の自分が生きようと積極的になると思います。
靖国の遊就館に時々行きます。
まだ生きてる人がいるなど知り親近感…か。
もう知る人がいなくなる時代に差し掛かるわけだけど、どうすればいいかね。。。
@@top326pond 僕の場合はそうでしたが他にも手段はあると思います!最初のコメントをした時は高校生でしたがあれから大学受験をして今は都内の大学生です。アルバイトで塾講師をしており子供と接する機会が他の人たちよりも多くあります。社会科を学ぶ中学生や、日本史受験でしたので日本史を学ぶ高校生達と共に空いている時間に戦争や平和について話したりしてます!
戦争とは残酷で悲惨なものです。とても一言では語り尽くせません。祖父母達の悲しい歴史は消えることはなく、亡くなるまで戦争の話をしていました。戦死した二人の息子の話は尽きる事なく、心に刻まれたまま物悲しい最後の人生でした。亡くなるまえ仏壇に手を合わせている祖父がやっと「息子の所へ行って顔が見れるんだよなぁ」と呟き、その後、「息子達は85歳の父親の顔がわかるかなぁ。」と言った言葉が今でも忘れられません。今度生まれてくる時は、平和でありますように!
元村長の言葉で『平和の中に生きてください。この世界を大切にしてください。』とても難しくて温かい言葉だと思いました。戦争を体験してない我々は平和ボケしてると言われますが、それで良いのかも。平和でいる事を感謝して、人を愛する。日本もロシアも戦争に行った人達が犯した事は凶悪かもしれない。でもその人を憎むのではなく、戦争を憎み、平和でいる事で戦争に勝つと。
同意です😢
シベリア抑留者の集合写真が映し出されると若き父の姿を探してしまいます。結婚が遅かった為に何かを語ろうにも私が幼すぎたし、娘に辛い記憶は話したくなかったと思いますが、母にも殆ど話すことはなかった様です。ただ最晩年、オペラの舞台を観た時に赤いマントが振られている演出に「ソ連」の旗が振られる様子を思い出して怖がっていました。
唯一私に語ったシベリアの思い出は辛さとは離れた精神の美しさ。私が父を今でも尊敬し続けている理由のひとつです。
ていうか60万もの人って物凄いな…
中核都市の人口以上だもんな
17年前、放浪旅で昼寝するつもりで立ち寄った無人駅での待ち時間に、偶然に帰還兵の方が当時の貴重な話をしていただきました。
なんか、私の心の甘えを見透かされそうな、そして何故か、凛々しくて、壮絶な地獄を生き延びた男の凄さは
年齢を重ねても何か「かっこいい」感じでした。後々「かっこいい」とは何かの価値観が変わり、感謝してます。
とにかく、長生きする事、這ってでも生きること、一生懸命は美しく、そして、全てにありがとうと思う謙虚さは、カッコ良いと思いました。
すごい出会いですね...
14:02~
横山さんの人間性、本当に素晴らしいとおもいました。最近は戦争について考えてさせられます。ウクライナ侵攻が停止されてることを切に願います。
学校でシベリア抑留について学んだことは一度もありませんでしたが、20年前に亡くなった祖父が当事者でよく話してくれていたので子供の頃から知っていました。今では学校等で学ぶ機会はあるんでしょうか?
とにかく食べ物についてうるさかった。少しでも贅沢なことや好き嫌いを言うと「わしがシベリアにいた時は…」と説教が始まる。
あまりにも毎日のように言うので、「耳にタコができる!」とほとんど右から左に聞き流していたことを今では後悔しています。
この映像では飯ごうでしたが、祖父の所は黒く固いパンだったそうです。それを同じラーゲリに暮らす人数分、寸分の差もなく切り分ける。これが大変だったそうです。少しでも差がつくと大きなパンを取ろうと争いになるからです。
ラーゲリはとても寒かったと言っていました。冬は仲間と抱き合うように寝た。それでも朝になるとその仲間が息をしていないこともあった。細かい話は忘れましたが、亡くなった人を山積みにして燃やすことがあり、その様子をラーゲリの窓から眺めながら、「いつか自分もあのように燃やされるんだ、いや、死んでたまるか!」と思っていたとも。
自分達を管理していたソ連兵はとても偉そうで腹立たしいことばかりだったようです。でも、そのソ連兵が使っている乗り物だか、自分達が使用する作業機械だかには「Made in Japan」と書かれていて、「偉そうに言っているくせに、使っているものは日本製なんだな!」と嘲笑していたらしいです。
しかし、近所には優しいロシア住民もいて、食べ物や飲み物、着る物を恵んでくれる人達もいたそうです。でも仲良くすると彼らが罰せられるのか、あくまでもこっそり。いつも世話してくれる母娘がいたようです。いつか飲ませてくれた温かいワインが忘れられないと言っていました。
祖父は木々の伐採作業をしていたそうです。毎日ノルマがあって、それをこなさないと終わらない。チームのノルマだから体調が悪い人がいるとそれだけ作業が遅れて困ったそうです。お腹も空いて力が出ず、弱音を吐く人を奮起させながら頑張ったそうですが、話を聞いているとどうやら祖父は弱音より、ソ連に対する文句を言って力にするタイプの作業員だったのでしょう。とにかくよく怒ってました(笑)。
騙されてシベリアに連行されたことは祖父も言っていましたが、日本が戦争に負けたことを知ったのは日本に帰る直前(終戦2年後)だったそうです。突然帰れるとなってまずは身体検査を受けることになったのですが、せっかくソ連にいたのだからここでの体験を家族に話そうと、お土産として自分で縫った服や作ったスプーンなどを持ち出し検査場に行ったそうです。そして荷物を置き服を脱いで検査を受けたら、違う部屋に案内されてそこにあった新しい服に着替えさせられたそうです。「帰る時まで騙された」とお土産を持ち帰れなかったことを口惜しそうに話していました。
全て子供の頃に聞いた話で思い出しながら書きましたが、きっと子供心に面白いと感じ、頭の中で映像化されていた記憶だけです。きっともっともっと話してくれていたはずですが、なにせ当時はこの話の貴重性が分かっていなかったし、ほんと毎晩同じ話なので(夕食時)ウンザリが勝ってろくに聞いてませんでした。
どこの収容所だったとか、仲が良かった戦友のお名前とか、固有名詞を覚えておきたかった。大人になった今なら、そしてネットが発達した現代なら、祖父の体験を様々な形で追体験できたでしょうに。
愚痴っぽい祖父でしたが、亡くなるまでずっと使っていたロシア語は「スパシーバ(ありがとう)」と「ハラショー(素晴らしいという意味ですが祖父は「美味しかった・ごちそうさま」という意味で使っていました)」でした。きっと日常的によく使っていた言葉だったんだろうと思っています。
長文失礼しました。
専門家がずっと喋ってるなって思いながら見てたら張本人だと知って驚いた。
93歳でこれはヤバい元気過ぎ笑
もう20年生きれるぐらいじゃん笑
お国の為に戦った勇者。まだ若かった……厳しい中、耐えながら生きる為に戦った。尊敬します。日本人としてありがとうの気持ちを忘れないようにしたいです。今の90代ですね…✨✨
私の祖父は十代前半でした。シベリア抑留のために汽車に乗せられたそうです。ですが飛び降りて逃げたそうです。
もし、祖父が抑留されていたら…
私達は生まれていなかったかもしれない。逃げた先で保護してくれた中国人のご家族には孫の私も本当に感謝しています。
戦時中に生きていた人や戦った人同士が憎み合うのは仕方がないですが、孫や曾孫が当時の事で憎み合うのは違います。
現在の日中関係は良くないけれど、そのご家族の孫や曾孫さん達が元気でおられることを願っています。
逃げたやつの話とかどうでもいいわ この動画はシベリアで地獄のような思いをした生き残りの方の体験談だったり亡くなられた方の話だから
@@11人ニキ-y1g そんな事ねーだろ、じゃあお前は10代前半で戦争に行く勇気あったのかよ、優劣とか決めつけんな気持ち悪い、日本の昔のご先祖様はみんな立派でいいだろ
@@11人ニキ-y1gお前はどうしようもない人間だな
中国人て優しい人はとことん優しいよな
僕の祖父もシベリア抑留者でした。どれだけ悲惨な事をソ連がしたのか、日本は忘れてはなりません。
あなたは日本がどれだけ残酷なことを他国にしたのかも知るべきでしょうね
自分だけが自国だけが被害者だと思わないことだ
@@噛ませ犬-z7c 事実と因果を知らぬ愚か者は消えろ!
@@噛ませ犬-z7c それほど他国のイデオロギーに見せられているなら、無理をする事はない。日本から出て行け!日本のあらゆる場面で責任ある行動をして来たのは保守層だ。それを馬鹿にする気ならば日本人であっても、所詮はゴミや散りカスと同じだ。立場も弁えずお礼一つも言えないような若者や馬鹿者は日本社会で淘汰されて当然だ。はっきり言おう、お前は生きる資格がない。
@@噛ませ犬-z7c 横から失礼
いくら日本が他国に酷いことをしていたとしても、日本兵が酷い目に遭ったという事実は消えないんですよ。
「日本人は酷い目に遭ったけど、日本も同じように他国に酷いことをしていたからこの件は無かったことにしよう」なんて理屈は通りません。
何よりも、そうやってそもそも『無かったこと』にしてしまうのは実際に被害を受けた当事者たちに対する失礼に当たると考えます。彼らが酷い目に遭ったという事実は確かに存在するのですから。
一番理想的な形は各国が各々の罪をしっかりと認め、それに対する誠意を見せることだと思います。誠意の見せ方は金銭でも、それを文章として後世に残すことでも、単に謝罪するだけでも何でもいい。とにかく歴史を風化させず、彼らの犠牲を無駄にしないことこそが大事なんだと思いますね。
@高橋ガラス いえいえ。 自分の書き方がパッと見どっち側か分かりにくいのも事実ですし……。
拙い文章で申し訳ありません。
予備役だった大叔父は最後の船で帰ってきた。何が辛かったって帰ったら妻が死んでた、と言うのが1番辛かったそう。
日本の兵隊さんたちは凄かったです。皆さんのおかげで今の日本人は幸せに暮らせています。
戦争の祈念館でのアルバイトで、初めてシベリア抑留を知り、そこで資料やビデオを見ました
抑留経験をされた方からもお話を聞かせていただきました
きっかけがあれば、若い人達に話して聞かせるように努めています
このような地獄のような抑留生活を耐えてくれた方たちのおかげで私たちがいます。本当にありがとうございます。
私の祖父はシベリア抑留を経験し、無事日本に生還した一人です。
孫の私が産まれたのは祖父が78歳の時。私が物心つく前に祖父は脳梗塞になり、後遺症で満足に話ができたことはありませんでしたが、
優しい人で91歳まで生きました。
もっと色んな話を聞きたかったし、
この映像を見ると、こんな過酷な状況を一生懸命生きながらえ、私にまで子孫を残してくれたことにただただ感謝しかありません。
「近頃、人間が酷く機械的になってきている」政経の先生の親戚の方が書き残した言葉。これを授業の時に聞いた時、背筋が凍る感覚がしました。
当時のシベリアで抑留されていた日本兵が寒さの中でよく頑張って3年間働いてこれたなと思いました。
父方の祖父がソ連で10年間捕虜にあったと父に聞かされ衝撃を受けました。
今、僕達が平穏に生きていることも祖父無しでは絶対に無かったこと。恥ずかしい話、今までなんとなく仏壇や納骨堂に手を合わせてたけど、今回のお盆で想いが変わりました。
こうしてお盆に祖父の子供、孫、ひ孫が集まれているのも祖父のおかげです。ありがとうございます。
私の恩師の先生もシベリア抑留経験者で日本史の授業でよく話してくれました。
まるで奴隷のような扱いだったっと話してくれてずっと泣いてたら泣き虫だなぁって笑って頭をガシガシ揺すってくれました(笑)
ありがとう先生、そしてお疲れ様。
優しい先生ですね😣✨
ソ連なんて戦ったかというくらい後になってやってきてみんなさらって行きやがった
日本が今まで戦った相手で最も見憎い敵だと思う
露助は不倶戴天の敵よ、アメリカより憎い
ロシアは 日本本土の半分をとるつもりであったが アメリカが阻止した。
北方領土 返せ❕
アジア人への差別意識も相まって日露戦争でやり込まれたのが相当憎かったんだろうな
Shin S なんか悲しい。この動画では日本とロシアの平和を願っているのにどうしてこうやって日本とロシアの関係を壊そうとするのかね。
いやソ連からしたら、ナチスがソ連で不可侵条約結んでたのに侵攻してきたから、ドイツの同盟国だった日本を侵略して何が悪いってことなんだろうね
ナチスなんかと手をつないだ日本がバカだったんだよね
この話は絶対に忘れてはいけない!
高齢なのにボケてもいなく元気で凄いな。
集合写真に祖父に似ている?本人?を見付けました。
祖父からは、シベリアの厳しい自然、朝起きたら同胞が凍死していたetcたくさん聞いた事を思い出しました。
ラーゲリより愛を込めて見て、けんめいに生きようとした人たちのことを知りました。私の親戚もシベリア抑留を体験し、なるべく多くの亡くなった人たちの名前を覚えて日本に帰ったそうです。もっといろんな人たちの話を聞いてみたいと思い沢山調べています。辛い経験も後世に伝えるために話してくれた人たちの想いをくみ、絶対に忘れずに伝えていこうと思います。
うちの爺ちゃんもシベリアに抑留されていました。
仲間が死んでいくのも何回も見たそうです。
当時赤痢も流行して、さらに仲間が死んでうちの爺ちゃんも赤痢にかかったみたいで、赤痢にかかった人はウメルと言う場所で隔離されたみたいです。
でもその中でも生きて帰る希望を捨てなかったみたいです。
出される食事はグリーンピースばかりだったと言ってました。
死んだ仲間は食欲がなくなり、そのグリーンピースを食べてくれと言われてそれをもらって食べたらしいです。
次の朝に彼は亡くなったと言ってました。
便所掃除はハンマーを持って行ったらしいです。
寒いから全て固まってるからハンマーでたたき壊すみたいでした。
とにかく抑留は悲惨なものだったらしいです。
今のロシア🇷🇺も体質的に変わらないんだなと今回の侵略行為をみて思いました。
ロシアには今後地獄が訪れるので我々は楽しんで鑑賞しましょう。
🇺🇸今のアメリカも体質的に変わってないよ
@@関係何お前みたいな人の不幸を願うような人がいる限り、この世の地獄はなくならないだろうな
一番最初に写っていた写真の中に、もしかしたら祖父がいるかもしれない、と思いながら見ていました。幸いか、日本に帰還し喜寿まで生きた祖父は決してシベリアでの事は話そうとしませんでしから、こうした番組で知ることができるのは非常に貴重だと思います。
コメント失礼ながら、、全く同じ思いでこの動画を見ました。私の祖父は93歳と長生きしてくれましたが、同じくシベリアの話は一切口に出さなかったので、こちらの動画やコメント欄で皆さんのお話を聞けて、とても貴重だと思いました。想像を超える辛い経験があっても、強くて優しかった祖父の事を思い出しては涙が溢れてしまいます。
記憶を鮮明に覚えていて
質問にも答えられるって凄い事ですね。
実家の高齢の母親は今年84ですが足腰が弱く要介護5で、ほぼ寝たきり生活です。
九十過ぎてるとは良い意味で驚きです。
この番組のアップから、わずか二年少々でロシアは、プ・・・の元でウクライナに進軍して、住民のみならず、世界を巻き込みながら戦闘に入りました。人は歴史に学ばないのだろうかとつくづく悲しく思う次第です。2022:3:14
うちの父方の曽祖父
もシベリア抑留されていたそうです。周りのみんなはもうダメだろうと思っていたらしい。どれだけの絶望の中で生き抜いたんだろうと考えると苦しいです。母の両親は戦争が終わる直前満州から釜山まで電車や徒歩でたどりつき
満州で病気で3人の息子、船の中で娘1人亡くしました。母は私が幼い頃から
「この時代に生きれて幸せだね」といいます。
流れる星は生きているという本があります
旦那さんと同じ電車に乗れず子供達と釜山港までたどり着く壮絶な話です。
うちの祖父も祖母が一緒に電車に乗ろうといいましたが先にいけと言われましたが、たまたま同じ電車に乗って一緒に帰ってきました。
配信ありがとうございます。私の父親も抑留されてラーゲルで過ごした日々が綴られたノートが先日とある諸事情により見つかり読んでいてむねが詰まる想いでした。帰国出来たのは24年と書かれていました。
ウチの亡くなった爺さんもシベリア抑留に行っていた。自分が小さい頃よく聞かされてたから胸が痛む。
今の生活がどれだけ幸せか分かりました
大切に生きます
話もってるから。写真見てみなよ、太ってるから。ストーリーやからこれは、マジにとらえなや
@@太陽元気-z5h 少なくとも俺らは幸せなはずです。
マジとかマジじゃないとかそこを指摘しているあなたは感謝できない悲しい人なんだなと思います。
@@太陽元気-z5h ソースは?
@@djgbjvhj4924 ソースはないけど、写真見ればわかるかなと思って。大袈裟に言いたがるから、昔の人は
喧嘩両成敗、お互いの非を認めて謝ろう、というのが日本人の美学。
左翼思想の強いメディアは、常にそれを利用し、赤寄りの番組を作る。
ましてTBSですよ。
生活困窮者をネタに政府批判のオンパレード「報道特集」も同じです。
話半分に聞いておかなきゃ、自虐洗脳されるだけです。
私の父もシベリアから帰ってきたと話してました。寡黙に何も語らずいましたが、ロスケ!!
とソ連人を呼んでいたのが記憶に残ってます。
涙が出ましたシベリア抑留極限の生活、憎っくきスターリン!平和が一番どの国も皆地球人、地球を大切に仲良く暮らせたら良いのにと祈ります
better hate ur own country, just read about all Japan's war crimes in China and Korea, from all i know ur educational system isn't ment to tell the truth
どうにか出来ないもんかねえ
父からお婆ちゃんのお兄さんがシベリアに行かされて日本に帰ってきた時はガリガリで、帰ってこれましたが精神もズタズタで自殺してしまったとききました。こんなに沢山の人達が辛い思いをしたのは凄く悲しく思います…。今の日本は平和で戦争の事が分からないと言うのが現実ですが、やっぱりちゃんと歴史を勉強して祖先の戦争経験を家族に話して教えないといけないと思いました。
靖国の遊就館の2Fの資料館に時々行きます。
伯父がシベリア抑留の被害に遭った。多分この写真に写ってる。
伯父はすごく優しいひとだった。孫よりも幼い私を可愛がってくれた。戦争のことは何も言わず逝ったけれど、こんな辛い目に遭ってたんだ……。
やはり抑留されていた人って多いんだな…コメを見ると実感する。
ほんとそれ思いました
93歳なのにやたら矍鑠としてるな しかも絵がめっちゃ上手い。
まだ、生きてるんかなあ
それだけ自分にあまくないんだろうな。
少しでも諦めたらすぐボケてヨボヨボ爺さんになる。
当時、大東亜戦争を体験された方達の
言葉はとても貴重だと思います!
戦争を知らない世代も見るべき動画だと思いました。
今の平和な日本があるのは、当時命懸けで国のために戦ってくれた方達のおかげです…
お疲れ様でした。
亡くなった方達のご冥福をお祈りします。 熊本/28歳
大東亜戦争は中国を侵略しまして・日本人知らないでしょ.
@@思想自由 可哀想な人だね。
歪んだ教育が、そう思わせているんだね。
一つだけ。
大東亜戦争は世界から植民地支配から、解放する事を目的として、開戦された戦争で、当時は白人至上主義社会国家が当たり前の時代だった。
黄色人種含めて、白人以外は、全て人間ではなく、人間の形をした、何かの生物として、当然人権は、存在しなかった。
事実、植民地では、寝るところも、食べる物も、与えられず、大量の餓死者が、出た地域もあった。
当時、有色人種には、国家樹立すらも、認められず、有色人種は、ひたすら植民地支配を受け入れるしかなかった。
だから、日本は、常任理事国時代に、全世界に、植民地支配から、有色人種を解放するよう、必死に訴えた。
その結果、日本は、激しい経済制裁の末、苦渋の決断を下した。
それが、大東亜戦争だった。
それでも、あなたは、日本が悪いと言えますか?
@@思想自由
その中国が今台湾侵攻を企んでいる
本当に皮肉な話です
中国って1949年建国だけど?
中島さんは大変な経験をしてきたにもかかわらずご立派で風格があり歩く姿勢なんてとても90過ぎには見えませんね まだまだ長生きしてくださいね
うちの親父もシベリア帰還者です。厳しい父でした。厳格な父でした。こんな状況がシベリアであることをほとんど知らなかった。親父が私にシベリアの話をしても 私は暢気に聞いていた 私が受け取れる力がなかったことが 今分かった。
父は旧制中学5年で特別幹部候補生という事で出征し、
満州で終戦のはずがソ連の捕虜となり、シベリア抑留生活、
樺太から復員船に乗り日本に帰りました。
その様な父も昭和と共にこの世を去りました。
貴重なお話を聴けて感謝です。
父の略歴です。
1943年 昭和18年 12月15日 現役下士官補充及服役臨時特例により、弱冠15歳、
旧制駒込中学5年、陸軍特別幹部候補生に志願。
その年に徴兵。陸軍第五練習飛行隊として満州国へ。
1944年 昭和19年 8月 第1練習飛行団
8月28日 満州国派遣の為、仙台出発
9月 6日 鮮満国境安東 通過
9月 8日 錦州省 中着
12月15日 軍令陸甲第152号により 第1練習飛行団を第五練習飛行団と改称
12月30日 第101教育飛行団の指揮下に 第五練習飛行団 満州第16675部隊
千田部隊 東部第102部隊
1945年 昭和20年 3月 上等兵に進級
8月 兵長に進級 元第五練習飛行隊 兵長 満州国阜新
18歳 満州国阜新にて第五練習飛行隊に所属し、兵長。
8月 9日 日ソ開戦 突然ソビエトが満州国に攻め入ってる。
8月15日 停戦のはずが、ソ連侵攻が続く
8月20日 本部第1教育隊錦県にて 武装解除
8月29日 大石橋 武装解除
9月19日 橋頭 武装解除
ソ連軍の捕虜となるソビエト捕虜
1年半に渡るロシアのシベリア抑留、
1947年 昭和23年 4月12日 捕虜として 外蒙ボルノール収容所に収容される。
森林の伐採、シベリア鉄道の敷設、強制労働の毎日。
捕虜になった兵士は飢えと寒さでドンドン死んでゆく。
強制労働を終えて捕虜生活から解放され念願の日本への帰還。
昭和22年 11月12日 ソビエト連邦ナホトカ港出航
11月15日 函館港 入港
11月19日 上陸許可。ようやく念願の母国日本に復員。
東京市高砂に戻るも、祖父は昭和21年3月5日午前10時55分に
肺炎の為、既に死去。
帰宅した際、母と姉に迎えられ、
南方戦線より戻った兄が辞書を破いて、タバコを巻いていたと言う。
お父様が帰国された頃には自分は乳飲み子でしたが、帰国できたのは良かったですね。とにかく、戦争は殺戮と破壊の他、何物でもありません。勝ったとしても無傷ということは無いはずですのに、愚かなことです。いまだに世界を巻き込みながら、戦闘がづいてます。特に軍が力を持つといけませんね。それぞれの愛国心にごまかされぬように、考えたいものです。有難うございました。合掌2022:3:14
切ない想いを私達は受け継いでいきましよう
日本が好きで、こんなに住み心地が良くて平和で…今自分がこれだけ豊かに暮らせることが、そのすべてが、ただただ尊いことであるのだと痛感します
日本が好きです。だからこそとてもつらい。でも目を背けてはならない。日本が好きということばの中には、ちゃんと中身が詰まっているのか?自分の気持ちをたしかめながら今日を生きたいです
願わくばもうこのような歴史が、どうか繰り返されることのなきよう
父がシベリア帰りでした。
私は孫と間違われるほど年の離れた親子ではあったため私がまだ若い頃に父を亡くしてしまいましたがシベリアの話は時々聞いておりました。見聞していて父の言っていたこととまったく同じことが本当に多々あり・・・絶句してしまい・・・
たくさんの方々の写る写真を見ると父の顔がないかと思わず探してしまうほどです・・・
舞鶴の記念館は父の遺影と共にいつの日か行きたいと心から思います。
私の父は、ソ連をとても憎んでました。 卑怯な国だと事ある毎に言ってました。 父はシベリア抑留で
結核になったそうです。 母は満州から引き揚げてくる時女はみんな坊主になり、夜は外にも出れず、一人の
子供が麻疹にかかったら赤ん坊以外全員かかり全員亡くなったそうです。 誰かが泣くと全員が泣き出したと
聞きます。 終戦したのに引き上げが酷いものだったそうです。 竹林遥か遠くでも悲惨な引揚者の状態が
わかりますね。
日本は東南アジアで何百万人もの人々を殺しました。 スターリンは正義の人です。あなたの日本政府は日本の血なまぐさい歴史を歪めています。
@@oldbagira2192 と、事実の捏造、歪曲がスタンダードな共産圏の国の人間が言っております。
@@oldbagira2192 自国民を何千万も殺してるやつが正義の人は草
祖父がシベリア抑留に行った話を父から聞きました。朝起きた時に昨日まで喋っていた友人が亡くなっていることもよくあったそうです。
よく朝日が見れることを感謝しろと言っていたのはこういう背景があったのかと思いました。
最後に出てきた小さい子供の笑顔が印象的。平和で当たり前に子供達が暮らせる未来が続きますように。。。
父もシベリア抑留され無事に帰る事ができ、去年百才で亡くなりました。生前抑留生活を本にして記録を残してくれました。抑留中、過酷な労働と粗末な食べ物を経験した父は、亡くなる1ヶ月前、2週間前、1週間前に体調悪くて食べられないのに、すき焼き弁当をたいらげ、海産物もたらふく食べて〜命を全うし私達に生きる意味を示して逝ったように思います。本当に病院の先生が驚くくらいの〜回復力を見せてくれていたようです〜壮絶な父の最後はまだまだ私達にやれることはやりなさい~と言っているようです。